高平小五郎
高平 小五郎(たかひら こごろう、嘉永7年1月1日(1854年1月29日) - 大正15年(1926年)11月28日)は明治時代の日本の外交官。男爵、枢密顧問官等を務めた。
略歴
現在の岩手県一関市の生まれ。陸奥国一関藩の藩士田崎三徹の三男であったが、同藩士高平真藤の養子となった。1868年の戊辰戦争には奥羽越列藩同盟側として従軍した[1]。1870年(明治3年)貢進生として大学南校(現在の東京大学)に入学し、1873年には同校を卒業して工部省に出仕した[1]。1876年(明治9年)以降は外務省に出仕し、1899年(明治32年)には外務次官にまで昇進したが、その間、アメリカ合衆国公使館勤務、朝鮮王国の漢城(ソウル)公使館勤務、上海領事、ニューヨーク総領事、オランダ兼デンマーク弁理公使、駐イタリア特命全権公使、オーストリア兼スイス公使などを歴任した[1]。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争当時は駐米公使として活躍した。この戦争で終始優勢を保っていた日本は、これ以上の戦争継続が国力的に限界であったことから、当時イギリス・フランス両国に肩を並べるまでに成長し、従来の孤立主義(モンロー主義)から脱却して国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し、日本海海戦戦勝後の1905年(明治38年)6月、「中立の友誼的斡旋」[注釈 1]を申し入れた。斡旋依頼は高平小五郎駐米公使によるもので、これにより、和平交渉の動きが加速化した[2]。高平は、同年8月から軍港ポーツマスで開催された日露講和会議に外務大臣小村寿太郎とともに全権委員として出席し、9月5日のポーツマス条約の締結に尽力した。
1906年(明治39年)、講和成立の功績により男爵の爵位があたえられ、同年から翌1907年には勅選されて貴族院議員を務めた。
1908年(明治41年)駐米大使となり、11月末には、極東・太平洋地域での領土認識の確認や貿易・産業の安定を図るため、アメリカの国務長官エリフ・ルートと交渉し高平・ルート協定を結んだ。これにより、アメリカによるハワイ王国併合とフィリピンに対する管理権を日本が、満州における日本の地位をアメリカがそれぞれ相互に承認することとなった。また、成文化されなかったが、アメリカは日本の韓国併合と満州南部の支配を、日本はカリフォルニアへのアメリカによる移民の制限をそれぞれ黙認した[3]。
1910年(明治43年)、高平は伏見宮貞愛親王に随行してイギリスに渡った。1912年(大正元年)に退官したが、1917年(大正6年)には再び貴族院議員に勅選され、死去するまで、その職にあった[1]。 1926年(大正15年)11月28日死去。
関連項目
脚注
注釈
- ^ 外交文書『日露戦争』より。
参照
参考文献
- 酒田正敏「高平小五郎」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年11月。ISBN 4023400521
- 永峰好美「日露戦争 脱亜の果ての分割」読売新聞20世紀取材班『20世紀Ⅲ 大日本帝国』中央公論新社<中公文庫>、2001年8月。ISBN 4-12-203877-4
- Gould, Lewis L. (1992). The Presidency of Theordore Roosevelt. University Press of Kansas. ISBN 0700605657
外部リンク
- 平野啓一「ニューヨークに輝く高平小五郎」
- 朝日日本歴史人物事典「高平小五郎」(Kotobank)