馬浣

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馬浣
各種表記
ハングル 마완
漢字 馬浣
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: ば かん
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馬浣(ば かん、朝鮮語: 마완)は、中国殷王朝政治家[1]

中国殷王朝人の馬浣は、学識と徳の高い政治家であり、紂王の暴政を誡め、政治の混乱を避けて馬浣の子の馬莊とともに隠居する。中国殷王朝滅亡後、中国殷王朝の政治家である箕子とともに朝鮮に入朝した[1]。その際に、『経書』を朝鮮にもたらした[2]

馬浣の子孫である馬黎は、温祚王による百済建国に元勳として参加し、左輔の官職を務めるなど百済建国に大きな役割を果たした。

朝鮮氏族長興馬氏木川馬氏は馬浣の子孫である[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b 金相勲、稲田奈津子、三上喜孝韓国人の起源に関する中高生の意識と『国史』教科書との関係」『山形大学歴史・地理・人類学論集』第13号、山形大学歴史・地理・人類学研究会、2012年、45-46頁、ISSN 1345-5435NAID 110009459520 
  2. ^ a b “장흥 학송마을, 장흥마씨의 숨겨진 이야기”. 장흥신문. (2019年1月11日). オリジナルの2021年1月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210121201307/http://www.jhnews.co.kr/news/articleView.html?idxno=457800