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香宗我部貞親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
香宗我部 貞親
時代 安土桃山時代から江戸時代前期
生誕 天正19年(1591年
死没 万治3年7月9日(1660年8月14日)[1]
改名 香宗我部親和→貞親
別名 長寿丸(幼名)、源右衛門、中原喜左衛門、左近
戒名 法雲院殿雪山不白居士[1]
墓所 宗円寺(千葉県佐倉市[1]
主君 長宗我部元親盛親寺沢広高堀田正盛正信
唐津藩川越藩松本藩佐倉藩
氏族 香宗我部氏
父母 父:香宗我部親泰、母:香宗我部秀通の娘
兄弟 親氏貞親
佳田与三兵衛の娘
娘:米
養子:重親(高井源左衛門の子)
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香宗我部 貞親(こうそかべ さだちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将香宗我部氏当主。

生涯

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天正19年(1591年)、長宗我部氏重臣・香宗我部親泰の次男として生まれる。幼名長寿丸。別名に親和。

父と兄が相次いで亡くなったため、文禄元年(1593年)に僅か3歳で家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで主家が改易されると浪人となり、土佐を去ってに移り住み、その後肥前唐津藩主・寺沢広高に500石で仕える。大坂の陣で従兄弟の長宗我部盛親が豊臣方についたため、中原喜左衛門という変名を名乗っている。

寛永7年(1630年)に寺沢家を辞して再び浪人となり、江戸の知足院で逼塞していたが[2]、親類の春日局の斡旋で寛永12年(1635年)に武蔵川越藩主・堀田正盛に1,000石で召抱えられ、のちに1,300石まで加増される。堀田家の信濃松本藩下総佐倉藩への転封にも従い、佐倉藩では城代家老を務めた。万治3年(1660年)7月に死去。香宗我部家伝証文は彼によって現在に伝わる。

養子の重親(堀田家臣・高井源左衛門の子)が家督を相続した。同年10月に佐倉藩が改易されると、重親は五十嵐元成・柴田朝意兄弟(母が貞親の従姉妹)を頼って仙台に行き、仙台藩に召抱えられて1,000石余りを与えられた。のちに、重親の実母方の従兄弟であり大老となっていた堀田正俊の要請により古河藩堀田家の客寄となった。長宗我部系の香宗我部氏は伊達藩家臣と堀田藩の家臣との二派に分かれ現在まで続いている[3]

系図

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佐竹親直
 
 
五十嵐元成
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長宗我部元親
 
阿古
 
 
柴田朝意
 
 
 
 
長宗我部国親
 
 
 
 
 
 
 
 
香宗我部親泰
 
 
香宗我部親氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
香宗我部秀通
 
女子
 
 
香宗我部貞親
 
香宗我部重親
 
 
 


系譜[1]

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  • 父:香宗我部親泰
  • 母:香宗我部秀通の娘(-慶長3(1598)年3月29日):法名は晴峡院宝鏡妙栄禅尼
  • 兄弟姉妹
    • 長男:香宗我部親氏(1572-1592):法名は浄徳院殿月渓芳心大居士
    • 長女:久礼田(-1645年頃):久礼田氏に嫁ぐ。貞親が姉の消息を気に掛ける手紙が複数残っている。
    • 次女:山際(-1635年頃)
    • 次男:香宗我部貞親
  • 正室:佳田与三兵衛の娘(-延宝7(1679)年8月4日):主家改易後は養子・重親、娘・米と共に仙台に移住。法名は了種院日性
    • 長女:米(-寛文12(1672)年7月22日):仙台藩士大町備前と結婚したが、難産により死去。法名は高峯院殿妙清
  • 養子

脚注

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  1. 1 2 3 4 土佐史談 (120)』土佐史談会、1968年7月、6-17頁。doi:10.11501/7913061
  2. (公財)高知県立歴史民俗資料館 編集・発行『岡豊風日 第105号』平成31年3月30日発行、p.5.
  3. 横山良吉『土佐戦国武将の盛衰の原因と末裔達』1974年、247-251頁。doi:10.11501/9769802

参考文献

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  • 『伊達世臣家譜』第二輯(仙台叢書刊行会、1937年)
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親』(ミネルヴァ書房、2016年) ISBN 978-4-623-07762-5