鞍部氏
鞍部氏 | |
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家祖 | 司馬達等[1] |
凡例 / Category:日本の氏族 |
鞍部氏(くらつくりうじ)は、日本の渡来系氏族。司馬氏[2]、鞍作氏とも[1]。
渡来時期
鞍部氏ないし司馬氏の渡来時期については、応神・仁徳朝、雄略朝、継体朝、崇峻朝の四時期の史料があり、仁徳朝は、平子鐸嶺、西田長男、町田甲一、滝田寿陽、小林剛(奈良文化財研究所)が支持している。雄略朝は、境野哲、堀一郎が支持している[2]。
出自
祖の司馬達等は、『元亨釈書』に「司馬達等南梁人,継体十六年来朝」とあるが、この「南梁」は、継体天皇十六年(521年)が梁武帝の治世に当たるところから創作された言辞に過ぎないとする論調が多いが、原史料名を明言しない虎関師錬の筆致を鑑みると、『元亨釈書』編纂時に「南梁」と記した異伝を参照した可能性を排除できない、とする見解もある[2]。司馬達等の母国は、司馬達等の渡来時期が応神・仁徳朝の場合、中国漢高祖の末裔の阿知使主との同族関係が推定でき、雄略朝の場合は百済との関係が推定され、境野哲は「西晋滅亡後朝鮮に入ったか、東晋の後が呉の方面から朝鮮に逃れたかした其の司馬氏の系統の人」とする[2]。
中井真孝は、司馬達等と鞍部氏と血縁のつながりはなく、日本に渡来するや鞍部氏に編入され、あるいは擬制的に鞍作村主の一族に属せられた、とする[2]。
直林不退は、「両者(司馬達等と鞍部氏)を同一の血縁関係を持つ直系の後裔であったと断言するのは些か躊躇せざるを得ない」として、「波動的渡来」の可能性を指摘しており、複数の時期・地域からの同系職種の技術者の渡来があり、彼等の何程かが鞍部として総括された可能性、そしてそのなかに、同じ血脈に連なるもの、地域を同じくする者同士が、先縁を辿って移住した可能性を指摘する[2]。また直林不退は、「司馬達等との直接的血縁関係が存在しないとしても応神・仁徳朝及び雄略朝に渡来したとされる鞍部氏に於いても、中国華南地方との関わりが窺えるのも興味深いところであろう」として、鞍部氏と百済の関係は『元興寺伽藍縁起』に「百済鞍部多須奈」とあるため、「現況では、平野邦雄氏のいう如く『南梁→百済→日本』とのルートを考えるのが最も自然ではなかろうか」「南梁・百済を経由しての渡来」「司馬達等が日本に渡来した系路は、中国南朝・百済であった」とする[2]。また『梁書』は、梁武帝普通二年(521年)百済が南梁に巻を上って遣使したとあり、『三国史記』は百済聖王十九年(541年)に梁武帝へ使を送ったとあり、南梁と百済の交流で種々の人的交渉が存在し、中国南朝から百済への移住があったとする[2]。