鈴木信吉
鈴木 信吉(すずき しんきち、1860年頃-没年不詳)は、日本の銀行家。名古屋の尾張藩の旧臣の家に生まれる。1898年に愛知銀行に入行し、営業部長、査業部長、常務取締役を歴任。1929年に尾張徳川家の家令となり、1931年の財団法人尾張徳川黎明会設立に尽力。第2次世界大戦後、財産税の適用により尾張徳川家と黎明会が財務危機を迎えた際に、東京都豊島区目白の尾張徳川家本邸の賃貸物件化、八雲産業株式会社の設立などにより、2016年現在まで続く同家と財団の財務基盤を整備した。[1]
経歴[編集]
1860年頃[2]、名古屋の[3]、尾張藩の旧臣の家に生まれる[4][3]。
1898(明治31)年10月10日に愛知銀行に入行[5][4]。豊橋支店、津支店を経て、本店検査役[4]。 1911(明治44)年9月29日、営業部長[5][4]、1919(大正8)年1月22日、取締役・営業部長[5][4]。1920(大正9)年3月12日に査業部長に転じた[4]。
愛知銀行時代は、尾張徳川家との関係から、北海道における同家の開墾事業や、北海銀行に関与[3]。祖父江重兵衛が経営に失敗した愛知物産の常務となり、経営を再建した[3]。
1929(昭和4)年1月25日、常務取締役、同年4月8日、営業部監督嘱託[4]。同年7月26日、尾張徳川家の家令となるため、取締役を辞任[5][6]。その後愛知銀行では、1941(昭和16)年6月[7]まで監査役を務めた[8][9]。
尾張徳川家の家令となった後は、1931年の財団法人尾張徳川黎明会設立に尽力[5]。
第2次世界大戦後、財産税の適用により尾張徳川家と黎明会が財務危機を迎える中、東京都豊島区目白の尾張徳川家本邸を賃貸物件化し、八雲産業株式会社を設立するなどして、2016年現在まで続く同財団の基盤を整備した[5]。
人物[編集]
手島 (1915)では、当時の愛知銀行頭取・渡邊義郎が法律家然とした厳格な人物だったのに対し、鈴木は柔和な商人風の人物で、事を円満に運ぶことのできる調整役と評している。馬場 (1925)では「温厚のうちにも何処か才走った人物」と評している。
脚注[編集]
- ^ この記事の主な出典は、香山 (2016, p. 121)、東海銀行 (1944, pp. 262-263)、馬場 (1925)および手島 (1915)。
- ^ に「本年55歳」と記載がある。
- ^ a b c d 馬場 1925.
- ^ a b c d e f g 東海銀行 1944, p. 263.
- ^ a b c d e f 香山 2016, p. 121.
- ^ 東海銀行 1944, pp. 262-263.
- ^ 同月、愛知銀行は名古屋銀行、伊藤銀行と合併し東海銀行となった(東海銀行 1944, pp. 365-373)
- ^ 香山 (2016, p. 121)、東海銀行 (1944)からの引用として。
- ^ 東海銀行 1944, pp. 262-263,343.