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金五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金 五郎
生誕 (1944-04-05) 1944年4月5日
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮
慶尚南道金海郡
死没1979年12月13日(1979-12-13)(35歳没)
大韓民国の旗 大韓民国
ソウル特別市江東区
所属組織大韓民国の旗 韓国
部門 大韓民国陸軍
軍歴1969年 - 1979年
最終階級中領
戦闘ベトナム戦争
粛軍クーデター
受賞

金 五郞(キム・オラン、朝鮮語: 김오랑1944年4月5日[1] - 1979年12月13日)は、大韓民国の軍人。最終階級は陸軍中領(中佐)。本貫金海金氏

1979年に発生した粛軍クーデターにおける数少ない犠牲者として知られる。2014年保国勲章三一章を追贈された。

経歴

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1944年4月5日朝鮮慶尚南道金海郡で生まれた。金海農業高等学校朝鮮語版卒業後、1965年陸軍士官学校第25期生として入学した。1969年に士官学校を卒業し、少尉に任官されて第2歩兵師団捜索隊の小隊長に任命された。猛虎師団の一員としてベトナム戦争に派遣された後、特殊戦司令部第3空輸特戦旅団中隊長や特戦司作戦将校、情報将校などを歴任し、韓国陸軍大学を修了した。卒業後は特戦司第5空輸特戦旅団中隊長に任命され、1979年に特戦司令官である鄭柄宙の秘書室長に抜擢された。

1979年12月12日、当時の国軍保安司令官で後の韓国大統領となる全斗煥などを中心とする軍内秘密組織「ハナ会」などが引き起こした粛軍クーデターの際、鄭を逮捕するために特殊戦司令部に侵入したハナ会側の第3空輸特戦旅団第15大隊と戦闘になり、射殺された[2]。35歳没。当初その遺体は司令部の裏山に仮埋葬されたが、鄭の後任の特戦司令官として着任した鄭鎬溶の命令で改めて部隊葬が行われ、1980年2月に国立墓地に埋葬された。民主化後の1990年には夫人である白栄玉朝鮮語版の尽力により、中領(中佐)へ特進している。

盲目[3]であった白は、1990年12月にクーデター当時第9師団長として反乱に参加した大統領盧泰愚を始め、全斗煥やクーデター時の第3空輸特戦旅団長である崔世昌朝鮮語版、第15大隊長として金と交戦した朴琮圭朝鮮語版などを相手取って民事訴訟を起こしたが、訴訟進行中だった1991年6月28日釜山広域市影島区の自宅3階から転落死した[4]

金の軍人精神を称えるため、第17代国会安泳根朝鮮語版が、第18代国会では金と同じ金海市出身の金正権朝鮮語版が、それぞれ「金五郎中領の武功勲章追贈および追慕碑建立建議案」を発議した。2013年民主党閔洪喆朝鮮語版が再提案し、同年4月22日に可決された[5]2014年6月6日、金海市三政洞朝鮮語版金海三省初等学校朝鮮語版三政中学校朝鮮語版の間を通る遊歩道横に、金五郎の胸像が建立された[6]

家族

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演じた人物

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TVドラマ

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映画

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脚注

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  1. ^ [스팟인터뷰] 고 김오랑 중령 평전 내는 김부송씨, 《오마이뉴스》, 2012년 7월 7일
  2. ^ “"12·12때 순직 김오랑 중령 명예회복 조속히 이뤄져야"”. 世界日報. (2005年12月11日) 
  3. ^ 김, 준철 (2009-12). 12.12군사반란과 어리석은 군인 김오랑. 민주화운동기념사업회. https://www.kdemo.or.kr/dn?type=book&src=file_19860610016338.pdf&filename=특별기고(200912).pdf 
  4. ^ 잊어진영웅 육군중령 김오랑~!”. 2020年3月23日閲覧。
  5. ^ '고 김오랑 중령 훈장추서 결의안' 의결, 2013년 4월 23일 노컷뉴스
  6. ^ 박현주 기자 (2014年6月11日). “마침내 고향에 돌아온 김오랑 중령”. 김해뉴스. オリジナルの2014年9月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140914115442/http://www.gimhaenews.co.kr/news/articleView.html?idxno=9837 2014年9月14日閲覧。 
  7. ^ [어떻게 지내십니까? 張泰玩 전 수도경비사령관]”. 월간조선 (2010年1月). 2024年8月18日閲覧。

外部リンク

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