許汜

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許 汜
後漢
従事中郎
出生 不詳
荊州襄陽郡
死去 不詳
拼音 Xŭ Sì
主君 曹操呂布劉表
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許 汜(きょ し、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家。

正史の事跡[編集]

初期の事跡[編集]

最初は曹操に仕え、従事中郎に任命されていた。興平元年(194年)、曹操が陶謙を討伐するため徐州に出征すると、許汜は張邈張超陳宮王楷らと共に呂布を迎え入れ曹操に叛旗を翻し、兗州の大部分を制圧した。これ以降は呂布に仕えた。

建安3年(198年)冬、呂布が曹操に敗退して下邳城内に追い詰められると、許汜と王楷は袁術の元へ救援要請に赴いた。袁術は前年の呂布との対立経緯から、援軍を拒絶する姿勢を示した。しかし許汜と王楷は、呂布が滅びれば次は袁術が攻められる番であると口説き、呂布の娘を送るという条件で、何とか袁術に救援を受諾させた。しかし、呂布は曹操軍の包囲を突破できる状況ではなく、実際には袁術の救援を得ることができなかった。

許汜の器量[編集]

呂布滅亡後、許汜は荊州劉表を頼りその客人となった。数年後ある宴席で、劉表・劉備と天下の人物を議論する機会があったため、許汜は一時呂布の下で同僚となった陳登を「横暴な(「豪気不除」)人間」と非難した。劉備が非難の理由を尋ねると、許汜は「陳登は客人を持て成す心がない。私と長い間口をきいてくれず、自分は寝台で休み、私を床に寝かせた」と答えた。それに対し劉備が「貴方は国士としての名声がありながら、宅地を求めるばかりで、碌な進言もしなかった。陳登はそれを忌み嫌ったのです。私なら、自分は寝台どころか百尺の楼上に寝て、貴方を床どころか更地に寝かせますな(陳登は、まだ優しい)。」と許汜の小人振りを痛烈に批判したため、劉表は大笑いした。

これ以後、許汜の名は史書に見当たらない。

物語中の許汜[編集]

小説『三国志演義』でも、王楷と共に曹操軍の包囲を突破して袁術に救援を求めており、経緯も結末もほぼ史実に沿ったものとなっている。ただし、劉備とのやり取りは採用されていない。

参考文献[編集]