裴駿
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裴 駿(はい しゅん、生年不詳 - 468年)は、北魏の人物。字は神駒。小名は皮。本貫は河東郡聞喜県。
経歴
[編集]裴双碩の子として生まれた。幼いころから聡明で、親族は珍しく思ってかれを「神駒」と呼んだため、このために字とした。弱冠にして経書や史書に通じ、文章を好み、礼節を備えていたので、郷里や一族に敬愛された。
445年(太平真君6年)、蓋呉の乱が関中で起こり、薛永宗が呼応して蜂起すると、聞喜県にも来襲した。聞喜県には軍備がなく、人心も混乱して、県令もなすすべがなかった。裴駿は家でこのことを聞くと、郷里の豪傑を集めて数百騎を編成してかけつけ、県を救援した。刺史に顕彰されて、北魏の朝廷にも報告された。太武帝が蓋呉に対して親征しようと、裴駿を召し出して意見を聞くと、かれの意見は時宜にかなっていたため、太武帝は喜んで中書侍郎に任じた。460年(和平元年)、南朝宋が明僧暠を使者として北魏に派遣してくると、裴駿は学才をみこまれて、仮の給事中・散騎常侍となり、使者の応接にあたった。468年(皇興2年)、死去した。平南将軍・秦州刺史・聞喜侯の位を追贈された。諡は康といった。