蘆野政泰

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蘆野政泰
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正20年(1592年
死没 慶長16年(1611年
別名 通称:弥左衛門[1]
戒名 道悟[1]
墓所 栃木県那須郡那須町芦野 建中寺
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川秀忠
氏族 蘆野氏
父母 父:蘆野盛泰 母:大関高増
資泰

蘆野 政泰(あしの まさやす)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将旗本交代寄合)。蘆野氏17代当主。

生涯[編集]

蘆野氏は下野国那須氏庶流で那須七騎の一つ。蘆野氏16代当主・蘆野盛泰(知行800石)の長男として生まれる。

慶長4年(1599年)、父・盛泰の急逝によりわずか8歳で家督を相続し、この年に上洛して豊臣秀頼に謁見した。慶長5年(1600年)には江戸へ行き、初めて徳川家康に拝謁。同年の関ヶ原の戦いでは周辺の那須衆ともども徳川家康率いる東軍に付き、政泰は老母を江戸に人質として送って二心無き事の証明を立て、上杉景勝の南下に備えて蘆野の防備を固めた。これらの功で戦後に300石を追加される。

慶長7年(1602年)に先の合戦で西軍についた常陸国佐竹義宣が所領を移される際には、伊王野資信と共に義宣の所領である山能に赴き、同地の守備にあたった。この年に更に1,600石の加増を受け、政泰の知行は合わせて2,700石となっている。

慶長16年(1611年)、死去。享年20。跡を嫡男・資泰が継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『蘆野系図』

出典[編集]

  • 『那須譜見聞録』(所収 『蘆野系図』)
  • 寛政重修諸家譜』(十二 135~136頁)