藤沢東畡

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藤沢 東畡
人物情報
生誕 (1795-02-02) 1795年2月2日
日本の旗 日本香川県
死没 1865年1月13日(1865-01-13)(69歳)
学問
研究分野 儒学
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藤沢 東畡(ふじさわ とうがい、寛政6年12月13日1795年2月2日) - 元治元年12月16日1865年1月13日))は、儒学者。[1]

経歴[編集]

讃岐生まれ。名は甫(はじめ)、字は元発、通称は昇蔵、別号は泊園。中山城山に儒学を学び、25歳で長崎に遊学、文政7年(1824年大坂に出て私塾 泊園書院を設立[2]、『原聖志』『思問録』などを出して名声があがり、在坂のまま高松藩に召し抱えられる。

伯園書院は長男の藤沢南岳(なんがく)、孫の藤沢黃鵠(こうこく)、黃坡(こうは)と受け継がれ、幕末から明治・大正・昭和と政界、官界、実業界、教育界、ジャーナリズム、学術、文芸など各方面に著名な人物を輩出。また、その膨大な蔵書「泊園文庫」が戦後関西大学に引き継がれ人文学とアジア学の礎となった。

東畡は長崎留学をして海外事情にも明るく、嘉永6年には吉田松陰も訪れている。門人は総勢3千人を超える大坂最大級の私塾(のちの関西大学)となった。元治元年春に将軍家茂に謁見し12月に亡くなっている。

長男が藤沢南岳で、明治17年(1884年)に南岳編の『東畡先生文集』が出た。

経歴[編集]

こちらに 藤沢 東畡と伯園書院の年表がある。

参考文献[編集]


脚注[編集]

  1. ^ なにわ大坂をつくった100人”. 2023年12月15日閲覧。
  2. ^ 伯園書院”. 2023年12月22日閲覧。