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薭生城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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薭生城
新潟県
城郭構造 山城
築城主 毛利時元
築城年 不明
主な改修者 北条高広
主な城主 越後北条氏
廃城年 不明
遺構 曲輪・土塁・堀切・竪堀
指定文化財 小千谷市指定史跡[1]
再建造物 なし
位置 北緯37度18分35.4秒 東経138度49分57.7秒 / 北緯37.309833度 東経138.832694度 / 37.309833; 138.832694北緯37度18分35.4秒 東経138度49分57.7秒 / 北緯37.309833度 東経138.832694度 / 37.309833; 138.832694座標: 北緯37度18分35.4秒 東経138度49分57.7秒 / 北緯37.309833度 東経138.832694度 / 37.309833; 138.832694
薭生城の位置(新潟県内)
薭生城
薭生城
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薭生城(ひうじょう)は、新潟県小千谷市薭生字城ノ腰に所在する日本の城。1972年(昭和47年)4月1日付けで小千谷市指定史跡に指定されている[1]

概要

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薭生城は有事の際に立てこもる城で、普段は、山麓下の薭生本村に館を構えていた。築城された年代は明らかではない。当初は薭生氏が居城していた。その後、現在の横浜市磯子区にあたる相模国平子郷から来た平子氏(たいらこし)が居城とした。

南北朝時代には長尾氏と共に上杉憲顕にしたがって活躍していた。地理的に上田長尾氏の与力であったが、守護上杉家の譜代の重臣であった。永正の乱では、小千谷は戦略的に重要な地となったが、平子氏は中立を保ち、双方から強い働きかけが行われ、複雑な立場であった。上条の乱では上条方だったが、長尾晴景家督相続後は晴景に従った。上杉謙信の死後の御館の乱では景虎方についたため、景勝方に滅ぼされ、平子氏は同市蘭木に逃げたという。その後、慶長5年(1600年) の上杉遺民一揆では、五智院の僧 海龍が3800人を引き連れ、薭生城に立てこもった。だが、まもなく鎮圧された。

アクセス

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脚注

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  1. ^ a b 「薭生城跡」小千谷市公式HP

参考文献

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  • 小千谷市史編修委員会『小千谷の歴史』小千谷市役所。
  • 小千谷の歴史編集委員会『小千谷の歴史(二十四版)』小千谷市教育委員会。

関連項目

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