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華陽丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
基本情報
運用者 長州藩(山口藩)[1]
艦種 運輸船[1]
艦歴
要目
排水量 413英トン[2]
総トン数 413トン[1]
長さ 170 ft (51.8 m)[1]
30 ft (9.1 m)[1]
機関 蒸気機関[1]
兵装 明治元年9月時[3]
英式12ポンド鋳造施條砲 2門
英式12ポンド鋳砲熕 1門
英式9ポンド鋳砲熕 2門
英式1ポンド自在砲 6門
その他 船材:[1]
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華陽丸(かようまる/かやうまる)は、長州藩(山口藩)所属の運輸船[1]

艦歴

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日本近世造船史 明治時代』によると
山口藩が松山で捕獲し、明治元年4月(1868年)に山口に持ち帰り、藩の保管とした[1]。 同年閏4月から8月、馬関三田尻間を航海した[4]

『日本海軍史 第7巻』『写真 日本海軍全艦艇史』によると
山口藩所属。明治元年松山で捕獲し軍務官所管となったが、同年2月に山口藩に返還された[5]

「チューサン」

『幕末の蒸気船物語』によれば、松山藩の「小芙蓉」を慶応4年2月(1868年3月)に長州藩が拿捕して「華陽丸」と改名[6]。1872年に売却、解体[7]。「小芙蓉」は元は1852年建造のP&O社蒸気船「チューサン (Chusan)」で、慶応2年(1866年)に松山藩が購入している[8]。「グラバー商会」によれば「小芙蓉丸」で、8万ドルで購入[9]

慶応4年3月26日の天保山沖観艦式に参加している[10]

所属

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上記のように『日本近世造船史 明治時代』では山口藩が保管[1]、 『日本海軍史 第7巻』『写真 日本海軍全艦艇史』では一時的に軍務官(明治政府、日本海軍)の所属となった[5]、 としている。

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j #日本近世造船史明治(1973)p.135
  2. ^ #S3公文備考45/天保山沖観艦式(2)画像1
  3. ^ #明治元年9月 諸願窺届留 波15/9月 長州華陽丸 覚 備付大砲計11門に御座候事画像1
  4. ^ #日本近世造船史明治(1973)p.177
  5. ^ a b 『日本海軍史 第7巻』p.469。中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.32。
  6. ^ 元綱数道『幕末の蒸気船物語』146-147ページ
  7. ^ 元綱数道『幕末の蒸気船物語』147ページ
  8. ^ 元綱数道『幕末の蒸気船物語』146ページ
  9. ^ 杉山伸也「グラバー商会」431ページ
  10. ^ 『日本海軍史 第1巻』56-57ページ

参考文献

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  • アジア歴史資料センター
    • 防衛研究所
    • 「天保山沖観艦式(2)」『昭和3年 公文備考 儀制26 巻45 大礼特別観艦式2』、JACAR:C04016133400 
    • 「9月 長州華陽丸 覚 備付大砲計11門に御座候事」『明治元年9月 諸願窺届留 波15』、JACAR:C09080174300 
  • 海軍歴史保存会(編)『日本海軍史 第1巻 通史第一・二編』海軍歴史保存会、1995年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』海軍歴史保存会、1995年。
  • 杉山伸也「グラバー商会」『九州と外交・貿易・キリシタン(II)』国書刊行会、1985年、401-540ページ
  • 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 元綱数道『幕末の蒸気船物語』成山堂書店、2004年、ISBN 4-425-30251-6

関連項目

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