菅原梶成

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菅原 梶成(すがわら の かじなり、生年不詳 - 仁寿3年6月2日853年7月11日))は、平安時代前期の医師宿禰のち朝臣官位従五位下侍医

経歴[編集]

本貫平安京右京承和元年(834年)正月に同族の菅原梶吉とともに宿禰姓から朝臣姓に改姓する(この時の位階大初位下)。同年、梶成は医術に通じていたことから、医術上の不明点を解決することを目的に、朝廷に命じられて遣唐知乗船事として遣唐使の随行者に加えられ、承和5年(838年へ渡る[1]。翌承和6年(839年)夏に帰国の途に就くが、帰路暴風に遭い南海に漂流して、見知らぬ島に漂着する。梶成は全員が助かることを仏神に祈願し、遣唐准判官・良岑長松と協力して壊れた船の材木を収集、新たに船を仕立て上げ[1]、梶成は第二船に乗船して出航し、承和7年(840年)4月大隅国に帰着した[2]。また南海の島で現地の人々と戦った際に捕獲した5尺1枚、片盖鞘横佩(太刀)1柄、1隻を朝廷に献上している[3]

承和10年(843年鍼博士に任ぜられたのち、侍医を経て、文徳朝仁寿3年(853年)正月に従五位下に叙せられるが、同年6月2日卒去。最終官位は侍医外従五位下。

人物[編集]

医術に熟練しており、治療した際の効果が非常に高かったという[1]

官歴[編集]

六国史』による。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 日本文徳天皇実録』仁寿3年6月2日条
  2. ^ 『続日本後紀』承和7年4月8日条
  3. ^ 『続日本後紀』承和7年6月5日条

参考文献[編集]