若栗城 (越中国)

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若栗城
富山県
別名 館の城(たちのしろ)、館山(タッチャマ)
城郭構造 平地城館
築城年 戦国時代
主な城主 不悪糺斎右京輔または、織田太郎左衛門
遺構 曲輪、土塁
指定文化財 黒部市指定史跡[1]
位置 北緯36度52分39.2秒 東経137度29分22.0秒 / 北緯36.877556度 東経137.489444度 / 36.877556; 137.489444
地図
若栗城の位置(富山県内)
若栗城
若栗城
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若栗城(わかぐりじょう)は、富山県(旧越中国黒部市若栗3737[2]にあった日本の城平地城館[3]とやま城郭カードNo.2[4][5]。黒部市指定史跡[1]。地元では「館の城」や「館山」(タッチャマ)とも呼ばれている[6]

概要・歴史[編集]

地方武士団の領主が、黒部川左岸の旧北陸街道に面した交通の要衝地に築城した戦国時代の典型的な平城で[6][1]、城主は不悪糺斎右京輔と伝えるが、別に織田太郎左衛門とも言われ、詳細は不明である。 1554年(天文23年)に上杉謙信(長尾景虎)が敵中へ侵攻、当時の若栗城主であった糺斎右京輔とその息女が奮戦したが落城。

以前は東西約90メートル、南北約80メートル程度の規模があり[7]1955年7月11日に黒部市史跡に指定された[1][2]ものの、1974年からの圃場整備により土塁の東側の一部が削られ、景観が大きく変わってしまっている[3]。現在はサクラの木々が植樹された大きな土盛りの土手(東側を除く三方を囲んだコの字形)と、城跡の高い所に建設された天満宮により構成されている。春にはサクラ、秋には彼岸花の名所として地元民の間で有名である[6][7]

発掘調査の際、建物の基礎とみられる石敷や土塁の裾の石列、珠洲焼片などが出土されている[7]

アクセス[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 「市指定文化財・史跡」黒部市公式HP
  2. ^ a b 黒部市の文化財 No.7(富山県、2022年12月10日閲覧)
  3. ^ a b 『富山県の歴史散歩』(山川出版社、2013年3月31日1版3刷発行)19頁。
  4. ^ 「とやま城郭カードが完成しました!」砺波市公式HP
  5. ^ 「とやま城郭カード一覧」砺波市公式HP
  6. ^ a b c d 若栗みどころガイド(2022年12月10日閲覧)
  7. ^ a b c 『富山大百科事典 下巻』(1994年8月1日、北日本新聞社発行)1091頁。

関連項目[編集]