第3軍に対するパットンの演説

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ジョージ・S・パットン中将(1943年)

第3軍に対するパットンの演説(Patton's Speech to the Third Army)、あるいはパットンの演説(Patton's Speech)、ザ・スピーチ(The Speech)とは、ノルマンディー上陸作戦の直前、アメリカ陸軍ジョージ・パットン将軍が指揮下の第3軍に対して行なった演説である。当時から猛将としてその名を知られていたパットンは、戦闘経験の少ない第3軍将兵の士気を高めようと最大限の努力を払っていた。作戦への参加にあたり、パットンは配下の将兵に対し、個人的な恐れを感じようとも軍人としての責務を全うし、また常に継続的かつ積極的な攻撃を試みるように求めた。パットンの演説にはいくらか冒涜的で将校らしくない言葉が含まれていたものの、それらの言葉もまた第3軍の将兵らには非常に受けがよかった。何人かの歴史家は、この演説はパットンが行なったもののうち最も偉大な1つであり、また歴史上最も偉大な動機付けの演説であったと評している。

この演説を元に、いくらか冒涜的な表現を除して短縮したものが、1970年の映画『パットン大戦車軍団』で使用された。映画の冒頭にて、巨大な星条旗をバックにジョージ・C・スコット演ずるパットンが演説を行うのである。以後、パットンの演説は一般にも広く知られるようになり、大衆文化における国民的英雄(Folk Hero)たるパットン像が確立されていった。

背景[編集]

1944年1月、ジョージ・パットン中将は第3軍司令官に着任した。パットン着任時、第3軍は英本土へ到着したばかりで、その大部分を戦闘未経験の将兵が占めていた。パットンに課せられた任務は、ナチス・ドイツに対する反撃の第一段階でもあるオーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)に向けて第3軍の将兵を鍛え直すことであった[1][2]

1944年4月1日、北アイルランドにて配下の将兵に対して演説を行うパットン

当時、パットンは実戦経験豊富で非常に影響力のある軍事指導者と見なされており、また部下を鼓舞する際にしばしば巧みな演説を行う事も知られていた。この演説は彼がこれまでに読んだ書物や自らの経験に関する話題を元に構成されていた[3]。こうした演説の際、パットンは彼自身が軍に対して抱く独特の信念に基づく派手で粗野な言葉遣いを好んだ。彼のやや古風な信念は普段の振る舞いにも現れており、例えば彼は象牙のグリップを備えた装飾入りのS&W M27 .357マグナム拳銃を愛用していたし[4][5]、しばしば儀礼用の磨かれたヘルメットと乗馬ズボン、騎兵用長靴を身につけて戦場に立った[6]。また彼のジープには前方および後方に大きな階級章プレートが取り付けられ、遠くまで聞こえるようにと通常よりも大きな音を出すクラクションを備えていたという[7]北アフリカ戦線での第2軍団英語版の再構築や、1943年のシチリア侵攻における第7軍の采配から、パットンが優れた野戦指揮官である事は知られており、戦闘中でも彼の訪問を受けると将兵の士気は非常に高まったという[8]。パットンは常に英陸軍のバーナード・モントゴメリー将軍と名声を競い合っていたが[9]兵士殴打事件英語版の後には一時左遷され大きく溝を開けられる事になった[10][11]

この演説にあたり、パットンは連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー将軍の要請により、報道機関からの注目を集めないよう努めた。パットンは欺瞞作戦『フォーティテュード作戦』における重要人物の1人であり、「猛将パットン」の存在はドイツ側に、「カレー上陸を計画する第1軍集団英語版」なる架空の大部隊の存在を信じこませることになる[12][13]。パットンは演出的な効果を期待して、彼のトレードマークでもあった儀礼用ヘルメット、正装用の軍服、乗馬ズボン、騎兵用ブーツを身につけ、さらに乗馬鞭を手にして演説に臨んだ。また、演説中は彼自身が「戦争の顔」(war face)と呼んでいた顰めっ面を浮かべていたという[14]。メルセデス・ベンツに乗って現れたパットンは、聴衆に囲まれた演説台の上で演説を始めた。この時の聴衆は師団相当の規模(15,000人)とも、それを上回っていたとも言われる[15]

演説[編集]

1944年2月、英本土においてパットンは配下の将兵に対する演説を行った[16]。演説自体は複数回行われているが、最も有名な演説は1944年6月5日、いわゆるD-dayの前日に行われたとされている[17]。第3軍は上陸作戦そのものには参加していなかった為[14]、パットン自身は作戦の発動日時を知らされていなかったが、いずれにしてもヨーロッパへの派遣に向けて将兵の士気を維持するべく、パットンは演説を行ったのである[18]。演説は部隊ごとに複数回行われたが、パットンは原稿を用意せず即興で演説に臨んだ為、大まかな内容自体は変わらなくても、演説の度に話題の順序や細部の言葉遣いなどが変化した[19]。例えば顕著な違いの1つとして、1944年5月31日の第6機甲師団英語版に対する演説の例が挙げられるだろう。第6師団に対する演説にのみ、パットンは次のような一節を挟んだ[20]

かつて祖国の為に死ぬことで戦争に勝ったロクデナシなどいなかった。他の貧相でマヌケなロクデナシどもを祖国の為に死なせてやる事によってこそ、諸君は勝利を掴むのである。
No bastard ever won a war by dying for his country. You won it by making the other poor dumb bastard die for his country.[20]

パットンの言葉は後に何人かの兵士によって文章に書き起こされているが、これらの文章の間でも言い回しなどに差異が現れている[19]。 歴史家のテリー・ブライトン英語版ギルバート・クック英語版ホバート・ゲイ英語版などを始めとする多くの軍人によって書かれた回顧録を元に、概ね完全な演説の全文を再現した[19]。パットンは日記の中で一連の演説について、「私は全ての言葉において、戦いと殺しを強調した」(as in all of my talks, I stressed fighting and killing.)とだけ記している[18]。 この演説は後に、「パットンの演説」や「ザ・スピーチ」の通称で知られていく事になる[18][14]

着席。

諸君、アメリカについての話題で、戦いを望まないとか、戦争から逃れる事を望んでいるとか、その手のものは全てデタラメだ。アメリカ人は闘争を愛している。全ての真のアメリカ人は、戦いの痛みやぶつかり合いを愛している。諸君が子供だった頃、諸君ら誰もが賞賛したのはビー玉遊びの王者とか、一番足の速い奴、大リーグの選手、最強のボクサーだった。アメリカ人は勝者を愛し、敗者を認めない。アメリカ人は、常に勝つためにプレイする。これこそ、アメリカがこれまでも、そしてこれからも負けを知らぬ理由だ。やたらと負けを考える事はアメリカ人に対する冒涜である。戦いとは、男が熱中できる最も重要な競技と言える。戦いは素晴らしいもの全てを発揮させ、それ以外の全てを消し去るのだ。

諸君ら全員が死ぬのではない。今日この場にいる者のわずか2%が、やがて大きな戦いで殺される事になる。誰しも最初の戦いを怖れる。違うと答える奴が居るなら、そいつはとんでもないホラ吹きだ。しかし、真の英雄とは恐れながらでも戦える男のことなのだ。何人かは戦火の元で恐怖を乗り越えるだろう、数分、数時間、あるいは数日を費やして。だが、死の恐怖という奴が、真の男の名誉、祖国への使命感、そして生来の男らしさを乗り越える事は決してできない。

諸君は軍隊生活の中で、諸君の言うところの「鳥の糞みたいな教練」についての文句を喚き散らしていることだろう。あれには目的がある。すなわち命令に対する即応と、一定の注意力を作り上げることだ。これは全ての兵隊が備えねばならない。私は自分の足で立てない奴に褒美をくれてやるつもりはない。しかし、あの教練が諸君ら全員を古参兵に作り替えた。諸君の準備は万端だ!生き延びたいのなら、警戒を怠ってはならない。さもなくば、ドイツのクソッタレが背後に忍び寄り、クソで殴り殺してくれるだろう。シチリアには名の刻まれた300個の墓碑がある。軍務を終えて眠る男のものだ──ただし、ドイツ人の墓だ。我々は向こうの士官がやる前に、ロクデナシどもを捕まえて眠らせてやったのだ。

軍隊とはチームだ。共に暮らし、共に食べ、共に眠り、共に戦うチームである。ここでは個人個人の英雄気取りはクソだ。サタデー・イブニング・ポストに投書した腹立たしいロクデナシは、ファックのやり方も本当の戦争も知らないのだ。そうだ、我々は最高のチームだ。最高の食事に装備、最高の精神、そして世界最高の男たち。我々に逆らう貧相なロクデナシに同情してやる理由などどこにあろうか。

本物の英雄というものはお伽話の戦士などではない。軍隊では各々が各々、重要な役割を果たしている。だからこそ、その手を止めてはならない。諸君の仕事が重要でないなどと考えてはならない。もしも全てのトラックの運転手が、砲弾の飛翔音を嫌って臆病になって排水溝に真っ逆さまに飛び込んだとしたらどうだ?その臆病なクズはこうも言うだろう、「地獄だ、奴らは私を見逃さない、何千の中のただ1人の男を!」と。全ての男がそんな事を言ったらどうだ?次の瞬間、我々はどうなっているだろうか?ああ、神よ感謝します、アメリカ人は決してそんなことを言うまい。全ての者が務めを果たしている。全ての者が重要だ。武器科の者は銃を供給する為に必要だし、需品科の者は食料や衣服を供給する為に必要だ。我々の行く先には大して盗めるものなどありはしないからな。それに食堂にいるマヌケどもだが、奴らは我々が官給のクソを作り続けられるよう、湯を沸かし飯を作ってくれる。

誰もが自分のことだけではなく、共に戦う戦友のことを考えなければならない。我々は腰抜けの臆病者が軍に居る事を望まない。奴らはハエのように殺されるべきだ。さもなくば奴らは戦争が終わった後、最低最悪の腰抜けとして家に帰り、より多くの腰抜けを生み出していくだろう。勇敢な男は、より多くの勇敢な男を生み出す。最低最悪の腰抜けを殺せば、我らは勇敢な男の国を手にする。

私がアフリカ戦線で目にした勇敢な男の1人は、チュニスを目指している最中、猛烈な銃火の中で電柱に登っていた。私は立ち止まり、何をしてるんだと彼に尋ねた。すると彼は「電線を直しています、閣下」と答える。「今やるにはちょいと危険じゃないかね」と私は応じる。「はい、閣下。しかしこのクソ電線を固定しなければならないのです」と彼が言う。「敵機の機銃掃射は気にならないのかね?」と尋ねると、「いいえ、閣下。けれど、必ずやり遂げてご覧に入れます」と答えた。ああ、そこに本物の兵隊がいた。本当の男だ。あまりに大きな代償にも関わらず、一見して些細な任務にも関わらず、その任務に命を捧げた男だ。

諸君もガベスへ向かうトラックを見た事があるはずだ。あの運転手たちときたら実に見事だった。昼夜を問わずクソ道路を這うように進んでいたのだ。そこら中に砲弾が降り注ぐ中、道を外れる事も無く、止まる事も無く。ほとんどの者は40時間以上もぶっ続けで運転した。我々は古き良きアメリカの根性で成し遂げたのだ。彼らは戦闘要員ではなかった。だが、使命を持った兵隊だった。チームの一員だった。彼らが居なければ、あの戦いには負けていただろう。

無論、我々は例外無く帰国を望む。加えて、我々は例外なくこの戦争の終結を望む。しかし諸君が倒れ横たわっていては戦争に勝利する事はできない。これを乗り越える最も単純な方法とは、つまりこれを始めたロクデナシを倒すことだ。我々は必ずや奴らを倒し、最低最悪な一切合切を一掃し、それから性病持ちのジャップどもを倒すのだ。とっとと奴らを引っ叩いてやれば、我々はとっとと帰国できる。祖国へ至る近道は、ベルリンと東京を経由する。だから進み続ける。そしてベルリンに到達したならば、私は直々にクソッタレのヘボ画家ヒットラーを撃ち殺してやるつもりだ。

砲弾穴に飛び込んだとして、そいつが一日中そこにいたとすれば、やがてドイツ野郎が彼を打ちのめすだろう。そして地獄を見る。私の部下は蛸壺壕を掘らない。蛸壺壕など攻勢を遅らせるだけだ。動き続けろ。我々はこの戦争に勝利する。しかし勝利はドイツ人と戦い、我々が奴らよりも何よりも根性を持ちあわせている事を示してこそ得られるのだ。我々はロクデナシどもを撃ち殺すだけではなく、生きたまま奴らの皮を剥ぎ臓物を引きずり出し、戦車の履帯を磨くグリスにするつもりだ。クソのブッシェル・バスケットでお粗末なフン族のコックサッカーどもを皆殺しにするのだ。

諸君の中には戦火の中で臆病風に吹かれないか心配しているものもいるだろう。安心しろ。私は諸君が諸君の義務を果たすだろう事を保証する。戦争とは血塗れの仕事、殺しの仕事だ。ナチは敵だ。奴らに血を流させるか、諸君が血を流すかだ。根性で奴らを撃て。奴らの腹を搔っ捌いてやれ。諸君の周りに砲弾が降り注ぎ、その後に顔の汚れを拭ったとして、それが泥ではなくかつての唯一無二の親友の成れの果てである血反吐と臓物だと気づいたなら、何をするべきかは誰だって理解する。

私は「現地点を保持」なる報告を望まない。我々はいかなるクソも保持しない。我々は常に前進し、敵のタマ以外の何を保持しようとも一切の関心を持たない。奴らのタマを"保持"してケツを蹴っ飛ばして、それからクソを漏らすまでタマを捻って蹴りつけてやれ。我々の作戦計画とは前進、前進し続けることだ。格好だけは立派なクソの敵どもを突破するのだ。

我々が諸君に対してあまりにも困難な要求を行っているといった不満があるのも知っている。私はそうした不満に文句をつけるつもりはない。私は1オンスの汗が1ガロンの血液を救うと信じているのだ。我々が困難を乗り越えれば、より多くのドイツ人を殺す事に繋がる。より多くのドイツ人を殺す事は、我々の戦死者を減らす事に繋がる。つまり困難の達成は戦死者の減少を意味するのである。諸君がこれを確実に覚えてくれる事を望む。私の部下は降伏しない。撃たれてもいない者が捕虜になったという報告など聞きたくはない。撃たれたとしても、諸君はまだ戦えるはずだ。ふざけて言っているのではない。リビアにいたある中尉は胸をルガーで撃たれて脇腹を蜂の巣にされていたが、ヘルメットを脱ぐとそれでドイツ野郎を殴り殺してみせた。私は彼のような男を求めている。その男は銃を拾うとさらに別のドイツ兵を殺した。その間、男の肺には銃弾が突き刺さっていた。諸君の模範だ!

忘れるな、私はいつでもここにいる。この事実を別の言葉で言い換えることもできる。世界は私が奴らを率いて地獄を作り出すことを予定していない。私は奴らの軍隊を指揮することを予定していない。そして私は英国人になる事を予定していない。さあ、最低最悪のドイツ人を探す為に馬鹿をやらかしにいこう。私はいつの日か、小便まみれの後ろ足で立ち上がった連中が「ああっ!糞の第3軍とパットンの糞野郎がまた来たぞ!」と遠吠えする様を目にする事を望む。

この戦争が終わって諸君が国に戻ったならば、やがて語れる事が1つある。今から30年後、炉辺で膝に孫を抱いて座っている時、孫が「大戦の時に何をしていたの?」と聞いたなら、こう答えたくはあるまい。「ええと、お前の爺さんはルイジアナで糞掘りをしていたんだよ」と。そうではない、諸君は彼の目をまっすぐ見てこう言えるだろう。「孫よ、お前の祖父は偉大なる第3軍にいたのだ。ジョージ・パットンという最低最悪のクソッタレの元に!」と。

よし、クソッタレども。私の気持ちはわかっただろう。いつも、どこでも、諸君のような素晴らしい男たちを率いて戦えたことを私は誇りに思っている。以上。

影響[編集]

この演説はパットン指揮下の将兵の間では非常に好評だった。元々のパットン自身の人気もあり多くの将兵が聴衆として集まったが、彼らはパットンの演説を静かに聞いていたという[15]。パットンの荒っぽく下品な言葉遣いもおおむね好評だった。パットンはまた、聴衆達を笑わせようといくらか演説にユーモアを込めていたとされ、兵士たちもこの演説を楽しんでいた様子だったという[15]。特にパットンの乱暴で下品な言葉遣いはいわゆる「兵舎語」(the language of the barracks)の一環として受け止められ[14] 、下士官兵たちに好評だった[22]

下士官兵らには快く受け止められた「兵舎語」だが、一方で将校の間ではこれを将校に相応しくない言葉遣いと受け止め不愉快に思う者もいたという[18][23]。こうした将校らは回顧録などでパットンの演説を文章に書き起こすにあたり、「bullshit」を「baloney」に、「fucking」を「fornicating」に置き換えるなどの訂正を行っている。ある文献では、「我々は敵のタマを保持する」(we're going to hold the enemy by the balls)という箇所を「我々は敵の鼻を保持する」(we're going to hold the enemy by the nose.)と訂正されている[19]。パットンの荒っぽく下品な言葉遣いについては、多くの批評家がパットンの元部下オマール・ブラッドレー将軍との対比を見出している[24]。ブラッドレーはパットンと対照的な性格であり、彼らは個人的にも仕事の上でもしばしば衝突した事が知られる[25]。ブラッドレーから言葉遣いを注意された折、パットンは家族に宛てた手紙の中で次のように触れている。

部下に重要な事をしっかり覚えてほしいと望む時、私は一層と汚い言葉を使うのだ。それは小柄な老婆たちのアフタヌーンティーパーティーのお喋りほど素敵には聞こえないかもしれないが、我が将兵がものを覚える助けにはなる。暴言無しに軍隊は動かせず、またそれは説得力のある暴言でなければならない。暴言のない軍隊は戦えず、小便浸しの紙袋から抜けだせまい。
When I want my men to remember something important, to really make it stick, I give it to them double dirty. It may not sound nice to a bunch of little old ladies, at an afternoon tea party, but it helps my soldiers to remember. You can't run an army without profanity, and it has to be eloquent profanity. An army without profanity couldn't fight its way out of a piss-soaked paper bag.

ジョージ・パットン, [19]

パットンに率いられた第3軍は1944年7月にノルマンディへ上陸して西部戦線各地を転戦し、8月中にはファレーズ包囲に参加[26]、12月にはバルジの戦いにおけるバストーニュへの救援を行った。第3軍が実現した迅速な攻勢こそ、パットンが演説の中で求めていたものに他ならなかった[27]

歴史家はこの演説をパットンの最高傑作と見なすものもいる。例えばテリー・ブライトンは、パットンの演説はシェイクスピアの史劇『ヘンリー五世』の演説(St Crispin's Day Speech)を超える史上最高の戦時における名演説と評している[14]アラン・アクセルロッド英語版は、彼が知る名言の中でも特に印象的なものだと評している[18]

1970年の映画『パットン大戦車軍団』公開の後、この演説は大衆文化にも取り込まれるようになった。映画のオープニングにて、ジョージ・C・スコット演じるパットンは、大きな星条旗の前で演説を行う[28]。この演説は「かつて祖国の為に死ぬことで戦争に勝ったロクデナシなどいなかった。」という引用から始まる。オリジナルの演説と比べると内容がいくらか省略されており、またパットンが実際にはユーモラスなアプローチから演説を行ったのと対照的に、スコットは非常に真剣かつ無愛想な様子でこれを演じている[29]。しかしスコットはこの演技をもってアカデミー主演男優賞を受賞しており、またスコットの演じたパットンは大衆文化における国民的英雄(Folk Hero)たるパットン像の象徴となった[29]

脚注[編集]

ノート[編集]

  1. ^ Blumenson 1974, p. 407.
  2. ^ Axelrod 2006, p. 124.
  3. ^ Axelrod 2006, pp. 67–68.
  4. ^ Zaloga 2010, p. 9.
  5. ^ Brighton 2009, p. xvi.
  6. ^ D'Este 1995, p. 478.
  7. ^ Axelrod 2006, pp. 77–79.
  8. ^ Brighton 2009, pp. 201–202.
  9. ^ Axelrod 2006, pp. 110–111.
  10. ^ Blumenson 1974, p. 331.
  11. ^ Axelrod 2006, p. 117.
  12. ^ Blumenson 1974, p. 409.
  13. ^ Axelrod 2006, p. 127.
  14. ^ a b c d e Brighton 2009, p. 260.
  15. ^ a b c D'Este 1995, p. 601.
  16. ^ George S. Patton's Speech to the Third U.S. Army”. Fort Knox, Kentucky: Patton Museum of Cavalry and Armor. 2006年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月27日閲覧。
  17. ^ Gist 2010, p. 477.
  18. ^ a b c d e Axelrod 2006, pp. 130–131.
  19. ^ a b c d e Brighton 2009, p. 261.
  20. ^ a b Gist 2010, p. 487.
  21. ^ Brighton 2009, pp. 262–265.
  22. ^ D'Este 1995, p. 603.
  23. ^ Brighton 2009, p. 249.
  24. ^ D'Este 1995, p. 578.
  25. ^ D'Este 1995, pp. 466–467.
  26. ^ Axelrod 2006, p. 139–140.
  27. ^ Axelrod 2006, pp. 152–153.
  28. ^ D'Este 1995, p. 602.
  29. ^ a b D'Este 1995, pp. 1–2.

出典[編集]