竹ヶ鼻城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
歴史民俗資料館前にある本丸城址碑

竹ヶ鼻城(たけがはなじょう)は、尾張国葉栗郡、のち美濃国羽栗郡(現・岐阜県羽島市竹鼻町)にあった日本の城平城)。天正14年(1586年)の木曽川大氾濫によりその流路が南遷したことに伴い尾張国より美濃国に遷った。それ以前の流路は現在の境川筋を流れ墨俣付近で長良川と合流していたと考えられている。竹鼻城と表記されることもあり、竹鼻城跡として1955年に羽島市の史跡に指定されている[1]

概要[編集]

正確な位置は特定されていないが、丸の内地区に本丸があったと言われている[誰によって?]。逆川を外堀とした二重のを有していた。

当初は、市道と竹鼻線の踏み切り付近に城碑があったが、現在は上城町、下城町付近が城跡と推定され、羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館|歴史民俗資料館前に城碑を移した。なお、北側の市道工事の際、地下から川原石の石垣が出土している。位置関係からも竹鼻城の遺構の可能性も高い[独自研究?]

築城は竹腰尚隆によって応仁年間に行われたとされている。その後は土岐氏斎藤氏に仕えた長井氏が入り、更に織田氏に支配権が移ったと考えられる。1584年織田信雄の配下の不破広綱が城主の時代に起きた小牧・長久手の戦いの際に、豊臣秀吉の水攻めに遭い落城(竹ヶ鼻城の水攻め)。不破は落ちのび、秀吉の配下の一柳直末が入城した。直末が大垣城主となると、池田恒興の配下の伊木忠次、次に森寺清右衛門が入城する。

その次の織田秀信配下の杉浦重勝が城主の時代の慶長5年8月22日1600年9月29日)、関ヶ原の戦いの前哨戦として福島正則によって攻囲され、二の丸、三の丸に詰めていた援軍の毛利広盛らが知己であった福島に降伏してしまったため落城、杉浦は自害した(竹ヶ鼻城の戦い)。後、竹ヶ鼻城は廃城となる。

現在跡地は商店街や羽島市の歴史民俗資料館となっている。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 主な指定文化財”. 羽島市 (2013年3月31日). 2014年7月31日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 竹ヶ鼻城 羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館ウェブサイト