竇黙

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竇 黙(とう もく、1196年 - 1280年)は、大元ウルスに仕えた漢人官僚の一人。大元ウルスに仕えた漢人官僚の中では特に姚枢許衡らと親交が深く、「儒林派」と呼ばれる派閥を形成していたことで知られる。

生涯[編集]

竇黙は幼い頃より読書に親しみ、毅然として志を立てたため、吏として推薦された時にはこれを辞退し儒学に専念することを願ったという[1]。モンゴル軍による金朝侵攻が始まると、竇黙は俘虜となってしまったが、一緒に捕らえられた者が殺される中、一人だけ逃れ出て郷里に帰ることができた[2]。しかし郷里では既に家は破壊され、生き残った母も悲惨な境遇を経た事から病を得て間もなく亡くなった[2]1232年壬辰)より再度モンゴル軍が侵攻してくると黄河を渡って母方の親族である呉氏を頼り、医者の王翁の娘を妻として医学を学んだ[2]。その後蔡州に移住すると、李浩という針治療の名医と知り合ってこれに師事し、『銅人針法』を伝授された。1230年代にモンゴル軍の第二次金朝侵攻が始まると、追い詰められた哀宗は首都の開封を放棄して蔡州に逃れてきたため、再び兵乱に巻き込まれるのを恐れた竇黙は徳安に移った[2]。このころ、モンゴル帝国の総督府に属する楊惟中が・道・釈を学んだ人材を召集していたため、竇黙は遂にモンゴル帝国に仕えることを決意するに至った[2]。以後、竇黙は大名に住んで姚枢許衡らとともに学問を続け、また郷里において経術の教授を行ったことから名が知られるようになった[3]

1250年代、第4代皇モンケより東アジア方面軍の指令官に任命された皇弟のクビライは、竇黙の名声を聞いてこれを召し出そうとした[2]。竇黙は当初姓名を変えてこれを逃れようとしたが、友人を通じて説得を受けたためやむを得ずクビライに仕えることになった。以後、クビライに帝王の道を説いて重用され、この頃姚枢も竇黙の推薦を受けてクビライに登用されている。更にその後、クビライの嫡子であるチンキムに教授を行うよう命じられ、玉帯鈎を下賜された[2][4]

中統元年(1260年)、モンケ・カアンが急死したことによりクビライは上都で第5代皇帝への即位を宣言し、竇黙も上都に召喚した。クビライは竇黙に対して魏徴の如き人材はいないかと尋ねたところ、竇黙は「剛毅不屈という点では許衡がまさにそうでしょう。深識遠慮、宰相の才があるという点では史天沢もそうでしょう」と答え、史天沢が右丞相に大抜擢される切っ掛けを作ったと伝えられている[2][5]

この頃、中書省の組織を整備するに当たって王文統が重用されていたが、竇黙は王鶚・姚枢らとともにこの人事に反対し、王文統を更迭して許衡を採用すべきであると上奏した。しかしこの上奏を喜ばなかったクビライは王文統を重用し続け、竇黙らは王文統の恨みを受けるようになった。そこで竇黙は太子太傅への推薦を断って病気を理由に帰郷し、果たして王文統は増長した結果処刑されるに至った。その後、竇黙の言が正しかったことを認めたクビライは再度竇黙を召し出し、以後竇黙は国政で重用されるようになった[6]

竇黙と上は蒙古文字(モンゴル式ウイグル文字)を担当する翰林院に配属され、翰林学士承旨撒的迷底里の配下に入った。至元12年(1275年)、80歳となった竇黙は老齢により実務を取り行えなくなっていたが、クビライはしばしば中使を派遣して事を問わせていたという。至元17年(1280年)には昭文舘大学士の地位を授けられたが、間もなく85歳にして亡くなった[7]

クビライ・カアンによる竇黙への評価として、「朕は賢者を30年に渡って求めたが、ただ竇漢卿(=竇黙)と李俊民の2人を得たのみである」という言葉が残されている[8]

脚注[編集]

  1. ^ 安部 1972, p. 421.
  2. ^ a b c d e f g h 宮 2018, p. 639.
  3. ^ 『元史』巻158列伝45竇黙伝,「竇默字子声、初名傑字漢卿、広平肥郷人。幼知読書、毅然有立志。族祖旺、為郡功曹、令習吏事、不肯就。会国兵伐金、默為所俘。同時被俘者三十人、皆見殺、惟默得脱帰其郷。家破、母独存、驚怖之餘、母子俱得疾、母竟亡、扶病藁葬。而大兵復至、遂南走渡河、依母党吳氏。医者王翁妻以女、使業医。転客蔡州、遇名医李浩、授以銅人針法。金主遷蔡、默恐兵且至、又走徳安。孝感令謝憲子以伊洛性理之書授之、默自以為昔未嘗学、而学自此始。適中書楊惟中奉旨招集儒・道・釋之士、默乃北帰、隱於大名、与姚枢・許衡朝暮講習、至忘寢食。継還肥郷、以経術教授、由是知名」
  4. ^ 『元史』巻158列伝45竇黙伝,「世祖在潜邸、遣召之、默変姓名以自晦。使者俾其友人往見、而微服踵其後、默不得已乃拝命。既至、問以治道、默首以三綱五常為対。世祖曰『人道之端、孰大於此。失此、則無以立於世矣』。默又言『帝王之道、在誠意正心、心既正、則朝廷遠近莫敢不一於正』。一日凡三召与語、奏対皆称旨、自是敬待加礼、不令暫去左右。世祖問今之明治道者、默薦姚枢、即召用之。俄命皇子真金従默学、賜以玉帯鈎、諭之曰『此金內府故物、汝老人、佩服為宜、且使我子見之如見我也』。久之、請南還、命大名・順徳各給田宅、有司歳具衣物以為常」
  5. ^ 『元史』巻158列伝45竇黙伝,「世祖即位、召至上都、問曰『朕欲求如唐魏徵者、有其人乎』。默対曰『犯顔諫諍、剛毅不屈、則許衡其人也。深識遠慮、有宰相才、則史天沢其人也』。天沢時宣撫河南、帝即召拝右丞相、以默為翰林侍講学士。時初建中書省、平章政事王文統頗見委任、默上書曰『臣事陛下十有餘年、数承顧問、与聞聖訓、有以見陛下急於求治、未嘗不以利生民安社稷為心。時先帝在上、姦臣擅権、総天下財賦、操執在手、貢進奇貨、衒耀紛華、以娛悦上心。其扇結朋党・離間骨肉者、皆此徒也。此徒当路、陛下所以不能尽其初心。救世一念、涵養有年矣。今天順人応、誕登大宝、天下生民莫不歓忻踴躍、引領盛治。然平治天下、必用正人端士、唇吻小人一時功利之說、必不能定立国家基本、為子孫久遠之計。其賣利献勤・乞憐取寵者、使不得行其志、斯可矣。若夫鈎距揣摩、以利害驚動人主之意者、無他、意在擯斥諸賢、独執政柄耳、此蘇・張之流也、惟陛下察之。伏望別選公明有道之士、授以重任、則天下幸甚』」
  6. ^ 『元史』巻158列伝45竇黙伝,「他日、默与王鶚・姚枢俱在帝前、復面斥文統曰『此人学術不正、久居相位、必禍天下』。帝曰『然則誰可相者』。默曰『以臣觀之、無如許衡』。帝不悦而罷。文統深忌之、乃請以默為太子太傅、默辞曰『太子位号未正、臣不敢先受太傅之名』。乃復以為翰林侍講学士、詳見許衡傳。默俄謝病帰、未幾、文統伏誅、帝追憶其言、謂近臣曰『曩言王文統不可用者、惟竇漢卿一人。向使更有一二人言之、朕寧不之思耶』。召還、賜第京師、命有司月給廩禄、国有大政輒以訪之」
  7. ^ 『元史』巻158列伝45竇黙伝,「默与王磐等請分置翰林院、專掌蒙古文字、以翰林学士承旨撒的迷底里主之。其翰林兼国史院、仍旧纂修国史、典制誥、備顧問、以翰林学士承旨兼修起居注和礼霍孫主之。帝可其奏。默又言『三代所以風俗淳厚・歴数長久者、皆設学養士所致。今宜建学立師、博選貴族子弟教之、以示風化之本』。帝嘉納之。默嘗与劉秉忠・姚枢・劉肅・商挺侍上前、默言『君有過挙、臣当直言、都俞吁咈、古之所尚。今則不然、君曰可臣亦以為可、君曰否臣亦以為否、非善政也』。明日、復侍帝於幄殿。猟者失一鶻、帝怒、侍臣或従旁大声謂宜加罪。帝悪其迎合、命杖之、釋猟者不問。既退、秉忠等賀默曰『非公誠結主知、安得感悟至此』。至元十二年、默年八十、公卿皆往賀、帝聞之、拱手曰『此輩賢者、安得請於上帝、減去数年、留朕左右、共治天下、惜今老矣』。悵然者久之。默既老、不視事、帝数遣中使以珍玩及諸器物往存問焉。十七年、加昭文舘大学士、卒、年八十五。訃聞、帝深為嗟悼、厚加賵賜、皇太子亦賻以鈔二千貫、命有司護送帰葬肥郷」
  8. ^ 『元史』巻158列伝45竇黙伝,「默為人楽易、平居未嘗評品人物、与人居、温然儒者也。至論国家大計、面折廷諍、人謂汲黯無以過之。帝嘗謂侍臣曰『朕求賢三十年、惟得竇漢卿及李俊民二人』。又曰『如竇漢卿之心、姚公茂之才、合而為一、斯可謂全人矣』。後累贈太師、封魏国公、諡文正。子履、集賢大学士」

参考文献[編集]

  • 元史』巻158列伝45竇黙伝
  • 新元史』巻157列伝54竇黙伝
  • 安部健夫『元代史の研究』創文社、1972年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年