科野新羅
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科野新羅 | |
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各種表記 | |
漢字: | 科野新羅 |
発音: | {{{nihonngo-yomi}}} |
日本語読み: | しなぬ の しらき |
科野新羅(しなぬ の しらき、生没年不詳)は、欽明朝前半期の百済官僚[1]。日本人であるが、百済王権に仕えた倭系百済官僚[2]。官位は百済官位六等「奈率」[3]。
概要
[編集]『日本書紀』百済系史料に記される斯那奴氏(科野氏)の活動は以下である。
- 1.
百濟遺灼莫古將軍・日本斯那奴阿比多,副高麗使安定等,來朝結好。 — 日本書紀、巻第十七
- 2.
遣使詔于百濟〈百濟本記云。三月十二日辛酉。日本使人阿比多率三舟來至都下。〉曰。 — 日本書紀、巻第十九
- 3.
在百濟日本王人方欲還之。〈百濟本記云。四月一日庚辰。日本阿比多還也。〉 — 日本書紀、巻第十九
1.では百済と継体天皇の外交において、百済使者「日本斯那奴阿比多」が現れるが、斯那奴阿比多の動向について、欽明天皇十一年に倭国が派遣した外交使節とみる見解があるが、そう単純ではなく、何故ならば、1.と2.の間にあたる期間に斯那奴氏(科野氏)が倭系百済官僚として現れるためである[4]。
百濟遣施徳馬武。施徳高分屋。施徳斯那奴次酒等。使于任那。謂日本府與任那旱岐等曰。我遣紀臣奈率彌麻沙。奈率己連。物部連奈率用歌多。朝謁天皇。彌麻沙等還自日本。 — 日本書紀、巻第十九
官位「施徳」を有する斯那奴次酒がみえるが、斯那奴氏(科野氏)は、『日本書紀』に他に現れない信濃豪族であり、ヤマト王権において活発に活動していたわけではなく、それを考慮すると斯那奴阿比多、斯那奴次酒、科野新羅は近しい関係にある可能がある[5]。すなわち、斯那奴阿比多、斯那奴次酒、科野新羅の関係であるが、倭国における有力豪族とは言い難い斯那奴氏(科野氏)という共通性からすれば無関係とは考え難く、斯那奴阿比多の活動は継体天皇十年から欽明天皇十一年、斯那奴次酒の活動は欽明天皇五年から欽明天皇十五年、科野新羅の活動は欽明天皇十四年であり、斯那奴阿比多は一世代前から活動を始めていることになるため、斯那奴阿比多が父、斯那奴次酒・科野新羅が兄弟の可能性がある[3]。
脚注
[編集]- ^ 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學東洋學硏究院): p. 123. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。
- ^ 李在碩 (I, Jesoku)「六世紀代の倭系百済官僚とその本質」『駒澤史学』第62巻、駒澤史学会、2004年3月、38頁、CRID 1050564288184403072、ISSN 04506928。
- ^ a b 河内春人 2017, p. 111.
- ^ 河内春人 2017, p. 105.
- ^ 河内春人 2017, p. 1105.
参考文献
[編集]- 河内春人「古代東アジアにおける政治的流動性と人流」『専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報』第3巻、専修大学社会知性開発研究センター、2017年3月、103-121頁、CRID 1390572174779544704、doi:10.34360/00008258。