秋山日出夫

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秋山 日出夫(あきやま ひでお、1905年明治38年)2月14日 - 1976年昭和51年)3月20日)は、昭和時代の合唱指揮者。戸籍上の本名は秋山 秀雄(読み同じ)[1]

経歴[編集]

東京本所北割下水にて生まれる[2]。東京府立工芸学校(現・東京都立工芸高等学校)精密機械科卒業[3]。アマチュア合唱団運動に加わり、1925年(大正14年)男声合唱団東京リーダーターフェル・フェライン(現・男声合唱団東京リーダーターフェル1925)の設立に参加する[4]。戦時中は軍隊や職場慰問で活動し、戦後は職場合唱団の指導に従事する[3]

主に官庁の合唱団を指導し、1948年(昭和23年)の第1回全日本合唱コンクール全国大会職場部門に運輸省合唱団を指揮して出場、優勝を果たす。1951年(第4回)~1953年(第6回)全日本合唱コンクール全国大会一般部門にてH・Gメンネルコールを指揮し3年連続優勝。ほか、農林省国鉄などの合唱団を指導し優勝に導く等、「優勝男」の異名をとる[5]。ほか青年団やママさんコーラスの指導も行う[3]。関東合唱連盟理事長、全日本合唱連盟理事、同副理事長などを歴任した[3]1971年(昭和46年)、藍綬褒章受章[6]

音楽[編集]

秋山の音楽の原点は、中学校の卒業旅行で京都知恩院へ行き、僧侶の声明を聞き和声の素晴らしさを知ったことに始まる。1923年(大正12年)関東大震災に遭遇し、全身火傷の少女の賛美歌を聞き合唱とは「掌」を合わせると信じるようになる[2]

大正時代から歌手として活躍をしていた秋山であるが、自身は音楽の専門教育を受けた経験がなく、戦後合唱指揮で生きていく決心をした際に「富士山は美しい。その山頂は専門の音楽家がやるだろう。自分は裾野をやればいい。」[2]との信念を抱く。秋山は「今でいう合唱指揮者の第一号」[7]とされる。同時代に活動した磯部俶は「秋山さんはそれで生活していた。それまではまったく前例がなかった。十数団体持ってらしたでしょう。お昼休みにやって夕方やって夜やって。その間あいてる時間はパチンコをやっていた。(笑)」[7]と述懐している。

「優勝男」の異名をとった秋山であるが、その必勝法は「課題曲を好きになることだね」「課題曲を1万回歌った団体が1位、9,999回歌ったところが2位というわけだね」[8]として課題曲重視の姿勢を鮮明にしていた。一方自由曲のレパートリーは「優勝男」にしては意外と少なく、「他団体が前に歌った自由曲を盥回しして次の団体がやっていた。」[8]

参考文献[編集]

  • 「創立50周年特別企画 焼跡のなかから燃えあがった合唱の灯」- 社団法人全日本合唱連盟機関誌「ハーモニー」No.92、1995年4月10日発行。

脚注[編集]

外部リンク[編集]