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石母田定頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石母田 定頼
時代 江戸時代前期
生誕 元和5年(1619年
死没 慶安3年5月20日1650年6月18日
改名 綱頼→定頼
別名 菊助、長門、大膳亮
戒名 徳興院竜泉活公居士
墓所 黄金寺(宮城県栗原市
主君 伊達政宗忠宗
仙台藩
氏族 石母田氏
父母 父:石母田宗頼、母:石母田景頼の二女
兄弟 定頼、女子(遠藤康信室→宮内定清室)、女子(伊達国隆室)
正室:沼辺重仲の娘
永頼、頼為、頼章、女子(遠藤俊信室)
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石母田 定頼(いしもだ さだより)は、江戸時代武士仙台藩重臣。

生涯

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元和5年(1619年)、仙台藩重臣・石母田宗頼の嫡男として胆沢郡水沢城にて生まれる。幼名は菊助

寛永6年(1629年)、奥山常良を烏帽子親として元服し、綱頼と名乗るが、正保元年(1644年)に片倉重長富塚重信らと共に徳川家綱の諱を避けて定頼に改名する。

正保3年(1646年)10月、江戸詰めとなり、奉行職代行を命ぜられる。翌正保4年(1647年)5月、父・宗頼の死去にともない家督を相続して栗原郡岩ヶ崎城6,500石を継ぎ、同年12月には、将軍家への御礼のため、使者として江戸城に登城して徳川家光に拝謁し、呉服一重を拝領する。

慶安元年(1648年)10月には再び江戸詰奉行の代行を勤めたが、ほどなくして帰国し、忠宗の近習として仕えていたが、慶安3年(1650年)5月20日、仙台屋敷にて病没。享年32。嫡男・永頼が家督を相続した。

系譜

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  • 正室:自照院(沼辺重仲の娘)
    • 石母田永頼 - 長男
    • 石母田頼為 - 二男。別家を興すが一代で断絶
    • 石母田頼章 - 三男。一族・桜目石母田氏初代当主
    • 白 - 長女。早世
    • 照光院 - 二女。遠藤俊信室

参考文献

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  • 編:大塚徳郎『仙台藩重臣石母田家文書』史料編(刀水書房、1981年)