石韜 (三国時代)

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石 韜(せき とう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。は広元(一般に石広元の呼び名で知られる)。豫州潁川郡(現:河南省)の人[1]

生涯[編集]

中平年間(184年 - 189年)に中原が乱れると、同郷の士である徐庶荊州に逃れる。荊州に来て以降は徐庶と共に、彼ら同様に戦乱を避け荊州に逃れて来た諸葛亮(字:孔明)、孟建(字:公威)、崔州平らと交友し学びを深めた。このことから石韜、徐庶、孟建、崔州平は「諸葛四友」と呼ばれる。

以降、に仕官し、その官職は太守から典農校尉に至った[2]

評価[編集]

諸葛亮の評[編集]

諸葛亮が荊州の隆中にいた頃、諸葛亮は学友の石韜、徐庶、孟建の才を見て「君たちは出仕すれば州刺史や郡守にはなれよう」と評した[3]

また、諸葛亮が隴西へ出兵した際、敵国魏にいる徐庶と石韜の官位を知り、「魏には多くの士がいるのだろう、どうして二人が用いられていないのだろうか」と嘆いた[4]

三国志演義[編集]

小説『三国志演義』では、石広元として登場し、孟公威(孟建)と酒を飲んでいたところ、三顧の礼諸葛亮の庵を再び訪れようとしていた劉備と出会う。

出典[編集]

  1. ^ 「按崔氏譜」―「亮在荊州、以建安初與潁川石廣元、徐元直、汝南孟公威等俱游學、三人務於精熟、而亮獨觀其大略」
  2. ^ 魏略」―「遂與同郡石韜相親愛。初平中、中州兵起、乃與韜南客荊州、到、又與諸葛亮特相善。及荊州內附、孔明與劉備相隨去、福與韜俱來北。至黃初中、韜仕歷郡守、典農校尉、福至右中郎將、御史中丞。」
  3. ^ 「魏略」―「每晨夜從容、常抱膝長嘯、而謂三人曰「卿三人仕進可至刺史郡守也。」三人問其所至、亮但笑而不言。」
  4. ^ 「魏略」―「逮大和中、諸葛亮出隴右、聞元直、廣元仕財如此、歎曰「魏殊多士邪!何彼二人不見用乎?」庶後數年病卒、有碑在彭城、今猶存焉。」