田辺廃寺跡
田辺廃寺跡(たなべはいじあと)は、大阪府柏原市田辺にある古代寺院跡。国の史跡に指定されている。
概要
[編集]大阪府東部、大和川南岸において、明神山系から西に延びた台地上に位置する。現在は春日神社境内に所在する。1971年(昭和46年)に発掘調査が実施されている。
伽藍は薬師寺式伽藍配置で、金堂を北、塔を東西に配する。創建は白鳳期の7世紀末葉頃で、奈良時代の8世紀前半にかけて堂塔の整備が進んだが、平安時代前期頃に焼失し、金堂のみが再建されて室町時代まで継続したと推測される。一帯は百済系渡来氏族の田辺史(田辺氏)の本貫地として知られることから、田辺史一族の氏寺と推定される寺院跡になる。
寺域は1975年(昭和50年)に国の史跡に指定されている[1]。
歴史
[編集]古代
[編集]創建は不詳。発掘調査によれば、白鳳期の7世紀末葉頃に創建され、奈良時代の8世紀前半にかけて堂塔が整備されたと推測される[2]。
田辺廃寺の位置する河内国安宿郡は百済系渡来氏族の田辺史(田辺氏)の本貫地であることから、田辺史の氏寺として創建されたと推測される[2]。付近には7世紀代の終末期群集墳である田辺古墳群、8世紀代の火葬墓群である田辺古墓群の分布も知られ、田辺史の墓地になるとして田辺廃寺との関連性が注目される[2]。また田辺史大隅が藤原不比等を育てていることから、田辺廃寺の所在する春日神社(藤原氏氏神)との関連を指摘する説もある[2]。
その後、平安時代前期頃に火災のため焼失し、金堂のみ再建されて室町時代まで継続したと推測される[2]。
近代以降
[編集]近代以降の変遷は次の通り。
- 1971年(昭和46年)、南門・東塔・西塔・金堂の発掘調査(大阪府教育委員会、1972年に概報刊行)[3]。
- 1975年(昭和50年)7月19日、国の史跡に指定[1]。
- 2005年(平成17年)12月、盗掘事件。
遺構
[編集]寺域は東西約110メートル(1町)・南北110メートル以上(1町以上)と推定される[2]。金堂を北、塔を東西に配する薬師寺式伽藍配置であり、主要伽藍として金堂・東西両塔・南大門の遺構が認められる。遺構の詳細は次の通り。
- 金堂 - 基壇化粧は瓦積基壇[2]。
- 西塔 - 基壇化粧は瓦積基壇。三重塔と推定される[2]。
- 東塔 - 基壇化粧は塼積基壇。三重塔と推定される[2]。
- 南大門 - 東西三間・南北二間の八脚門[2]。
- 回廊 - 中門左右から出て、堂塔を囲む。推定で約55メートル(半町)四方を測る[2]。
その他の伽藍として、講堂は削平のため検出されておらず、僧房・食堂も明らかでない[2]。
寺域からの出土品としては多量の瓦等がある。創建期の瓦は金堂・西塔に多い線鋸歯文縁素弁八葉蓮華文軒丸瓦・偏行忍冬唐草文軒平瓦であり、7世紀末葉の藤原宮造営期に位置づけられる[2]。同型式の軒瓦は周辺の五十村廃寺・原山廃寺・円明廃寺のほか、香川県の仲村廃寺・開法寺でも知られ、関連性が注目される[2]。出土品の様相によれば、7世紀末葉頃から8世紀中葉頃までに金堂→西塔→東塔の順で整備されたと推測される[2]。
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西塔跡
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西塔心礎
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東塔跡
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東塔心礎
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軒丸瓦
柏原市立歴史資料館展示。
文化財
[編集]国の史跡
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(文部省・大阪府教育委員会・柏原市教育委員会設置)
- 「田辺廃寺跡」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』平凡社、1986年。ISBN 458249028X。
- 「田辺廃寺跡」『国指定史跡ガイド』講談社。 - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『田辺廃寺跡発掘調査概要 -柏原市田辺1丁目所在-(大阪府文化財調査概要 1971-2)』大阪府教育委員会、1972年。
- 『田辺廃寺跡発掘調査』春日神社、1973年。
- 「田辺廃寺」『柏原市埋蔵文化財発掘調査概報 1997年度(柏原市文化財概報1997-I)』柏原市教育委員会、1998年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
外部リンク
[編集]座標: 北緯34度33分37.55秒 東経135度38分32.93秒 / 北緯34.5604306度 東経135.6424806度