田楷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています詳細
田楷
後漢
青州刺史
出生 生年不詳
死去 建安4年(199年
拼音 Tián Kǎi
主君 公孫瓚

田 楷(でん かい、? - 199年)は、中国後漢時代末期の軍人。「田揩」とも書く。

正史の事跡[編集]

公孫瓚配下。初平2年(191年)以降、公孫瓚は従弟の公孫範の活躍もあって、袁紹をも凌ぐほどに河北で勢力を拡大していた。この時、公孫瓚は厳綱冀州刺史単経兗州刺史に任命し、同時に田楷も青州刺史に任命した。

初平3年(192年)、公孫瓚は界橋の戦いで敗れたものの、袁紹軍の崔巨業を撃破して、平原郡方面まで南進した。これにより田楷はに駐屯し、公孫瓚の下へ頼ってきた劉備らを配下として、袁紹に対抗した。しかし2年余り戦うも糧食が尽きたため、兵卒が疲労困憊し、青州の民衆も飢えに苦しんだという。

初平4年(193年)、曹操陶謙を攻撃した時、陶謙の援軍要請を受け徐州へ赴き、劉備と共に陶謙を救援した。曹操が兵を退くと、劉備を徐州に残して田楷は青州に戻った。

やがて、袁紹の子袁譚が平原を拠点とし青州に進出したため(後に曹操から刺史に任命される)、田楷は駆逐されてしまった[1]。 その後、田楷は袁紹軍に敗れて戦死した。

物語中の田楷[編集]

小説『三国志演義』でも登場するが、公孫瓚や袁紹との関係については触れられておらず、史実同様に陶謙への援軍となった場面にだけ登場し、以後は姿を見せない。

脚注[編集]

  1. ^ 後漢書』公孫瓚伝によれば、田楷は薊へ帰還したとの記述がある。しかし、『三国志』魏書袁紹伝は、建安4年(199年)の公孫瓚滅亡後に袁譚が青州へ向かったとしている一方で、『三国志』魏書崔琰伝注は、建安元年(196年)に袁譚は青州刺史の孔融を青州から駆逐した、と記載している。そのため、田楷が青州から追われた時期が公孫瓚滅亡前後のいずれか、はっきりとしない。

参考文献[編集]