王台

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王台(? - 1582年)、本名「萬」(ᠸᠠᠨ, Wan)、ナラ(那拉)氏、塔山左衛都督・克什納の長子・徹徹穆の子で、ハダ(哈達)部の首長・王忠の甥。万汗(ᠸᠠᠨ ᡥᠠᠨ, Wan han)とも。

早期は綏哈城に住んだ。王忠は開原靖安堡外に住んだが、部下の謀叛により殺害された。王忠の子・博爾坤舎進は父の仇を取り、従兄にあたる萬を綏哈城[1]からハダ部落へ迎えた。ハダ部に来た萬は13寨を領知し、ベイレを継承した。後、萬は遠国との交流を維持しながら近隣周辺国に進攻、ハダ部勢力は徐々に強大化し、女真諸部を統一するに至った。史料に拠れば、当時イェヘ(葉赫)、ウラ(烏拉)、ホイファ(輝発)および建州女真の属する渾河部落が尽くハダに服従し、領土は千余里に及んだという。萬はそこでハダ国を建て、自らハン(汗)を称した。興祖・福満の三子・索長阿は子・呉泰に萬の娘を娶らせ、萬と姻戚関係を結んだ。建州右衛都指揮使・王杲と蒙古図們汗は互いに策応したが、萬はその間に割って入り聯合を阻止した。これにより明朝から都督に封じられた。

万暦2(1574)年、王杲を捕縛し、京師に身柄を送検した。明朝は萬を右柱国に冊封し、龍虎将軍に任命、二子を都督僉事に任命し、黄金20両と大紅獅子紵衣を一襲(カサネ)授与した。萬はイェヘ部の清佳砮、楊吉砮と関係を深め、楊吉砮に自らの娘を嫁がせ、楊吉砮の妹・温姐を娶った。

晚年の萬は生活が乱れ、耐え兼ねた庶民がイェヘ部に逃げ込むことも屡々起り、国勢は愈々衰えた。楊吉砮はウラ部と萬の長子・扈爾干を抱き込み、季勒を含む8寨を奪取した。万暦10(1582)年7月、病により萬死去。明朝は萬の忠誠を評価し祭祀を行い、彩幣と四表里を与えた。

萬の死後、長子・扈爾干が即位した。弟の康古魯は服せず、両者で血みどろの争いが繰り広げられたが、康古魯がイェヘ部に逃亡し収束した。

脚注[編集]

  1. ^ シベ族の居城。

参考資料[編集]