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このウィキでページ「1798年のイギリス」は見つかりませんでした。以下の検索結果も参照してください。
- 1798年(1798 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。 この節は、ウィキプロジェクト 紀年法のガイドラインに基づいて記述されています。この節に大きな変更を加える場合には、あらかじめ上記プロジェクトのノートで提案し、合意を形成してください。 凡例…8キロバイト (1,180 語) - 2024年7月16日 (火) 16:24
- その例としてはデカンのニザーム王国があげられる。同国は1795年にマラーターに大敗北を喫し、その劣勢が明らかになったため、1798年にイギリスと軍事保護条約を締結した。その条約では領内からフランス人を追放すること、領内にイギリス軍を駐屯させること、外交に対しても制約を受けることが定められた。 また、イギリス…62キロバイト (8,777 語) - 2024年11月4日 (月) 02:38
- の地位にあり、第一次世界大戦終了から第二次世界大戦までの間はアメリカ合衆国と同等の二大超大国であったが、第二次世界大戦終了後に植民地が次々と独立したことで、イギリスの帝国体制は「イギリス連邦」へと転換し、超大国の地位から離れることとなった。 最後の植民地はイギリス領香港であり、1997年の…64キロバイト (8,700 語) - 2024年11月7日 (木) 02:59
- イギリスにとってのナポレオンとのはじめての直接対決であり、以降17年間続くナポレオン戦争の実質的な幕開けであった。 1798年、ナポレオンはエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いでカイロを陥落させると、シリア方面に転じヤッファ、アレクサンドリアでイギリス陸軍を打ち負かした。しかしアッカの戦いでイギリス…122キロバイト (17,797 語) - 2024年10月5日 (土) 23:16
- グレートブリテン及びアイルランド連合王国 (カテゴリ イギリスの歴史)Ireland)は、1801年にグレートブリテン王国とアイルランド王国が合同して成立した王国である。1922年にアイルランド自由国が樹立され、残りの地域は1927年にグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国と改称された。 イギリスがフランス革命戦争を戦っていた最中の1798年…8キロバイト (611 語) - 2024年11月4日 (月) 12:49
- Commonwealth)に由来するイギリス連邦(イギリスれんぽう)、英連邦(えいれんぽう)と称されることも多いが、1949年にイギリス(British)という表記は撤廃されている。 コモンウェルスの歴史は20世紀前半に遡り、イギリス帝国の脱植民地化に伴い、領土の自治が強化されたことで始まった。元々は1926年の帝国会議でのバルフォア宣言によってイギリス連邦(British…72キロバイト (5,768 語) - 2024年11月8日 (金) 21:02
- イギリス軍が香港島に上陸し島を占領する。イギリス領有を宣言し、エリオットは香港行政官に就いた。翌年の南京条約により、香港島はイギリスに永久割譲される。 1843年(道光23年)6月、初代香港総督にサー・ヘンリー・ポッティンジャー(英語版)が就任、植民地としてのイギリス…19キロバイト (2,439 語) - 2024年8月11日 (日) 23:16
- ^ 1798年2月まで王璽尚書 ^ 1876年8月から貴族院院内総務 ^ 1882年5月からアイルランド総督 ^ 1885年3月まで王璽尚書 ^ 1886年1月から陸軍大臣 ^ 1900年3月から1902年7月まで教育委員長 ^ 1902年7月から貴族院院内総務 ^ 1911年3月から1911年5月までインド大臣…82キロバイト (724 語) - 2024年7月19日 (金) 20:41
- 1798年1月のマニラ奇襲(マニラきしゅう、英語: Raid on Manila)は、フランス革命戦争中に行なわれた、イギリス王立海軍による偽旗作戦。 この作戦は、スペイン領フィリピンの首都マニラでマニラ・ガレオンの拿捕とスペイン海軍の状態の偵察を目的としていた。マニラは1796年…26キロバイト (3,677 語) - 2023年12月29日 (金) 21:17
- イングランド (カテゴリ 出典を必要とする記述のある記事/2023年6月)1697年)、名誉革命(1688年 - 1689年)。ウィリアマイト戦争(1689年 - 1691年)でアイルランドを弾圧。1707年にイングランドとスコットランドが連合してグレートブリテン王国を形成し、合同法によって両国の議会は統合された。ジャコバイトの反乱(1715年の反乱(英語版)、1745年の反乱(英語版))。 1798…40キロバイト (4,377 語) - 2024年8月3日 (土) 09:48
- グレートブリテン王国 (カテゴリ イギリスの近代史)1798年のアイルランド反乱(英語版)を引き起こした。この反乱は鎮圧されたが、再発防止のために首相ウィリアム・ピットが1800年合同法を成立させた。これにより、王国は1801年にアイルランド王国と合同し、新たにグレートブリテンおよびアイルランド連合王国が成立した。 アン(在位:1707年 – 1714年)…7キロバイト (504 語) - 2024年5月24日 (金) 05:54
- イギリスのロマン主義は、ウィリアム・ブレイクの詩をその萌芽とし、ウィリアム・ワーズワースとサミュエル・テイラー・コールリッジの共著である詩集『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』(1798年)をもって本格的に始まる。ワーズワースとコールリッジはフランス革命に対し憤慨した後、保守派に回ったが、若き詩人た…24キロバイト (2,609 語) - 2024年10月20日 (日) 00:43
- イギリスの支配するところとなり、イギリス東インド会社の前線となった。 1818年には、イギリスからオランダに対してマラッカが一時的に返還されたものの、1824年の英蘭協約によって、マラッカ海峡を境に植民地の交換が行われ、マラッカを含むマレー半島においては、イギリスの支配権が確立することとなった。…80キロバイト (11,924 語) - 2024年8月8日 (木) 00:56
- また同時に、神聖ローマ帝国のハノーファー選帝侯でもあり、1814年10月12日以後はハノーファー王ゲオルク3世 (Georg III)に昇格した。ハノーヴァー家の国王だったが、先代・先々代と異なりイギリス生まれで母語は英語であり、ハノーファーへは一度も訪れなかった。 ジョージ3世の寿命と治世はそれまでの全てのイギリス…83キロバイト (10,498 語) - 2024年10月23日 (水) 14:46
- ザンビア (イギリス領北ローデシアからのリダイレクト)1798年にこの土地に進出していたポルトガルは、1830年代から大西洋岸のアンゴラ植民地とインド洋岸のモザンビークを結ぶべく、内陸のザンビアへの探検を本格化させ、シルヴァ・ポルトのような探検家がこの地を訪れた。他方、19世紀半ばにはイギリスもこの地への関心を深め、1855年…45キロバイト (5,690 語) - 2024年7月12日 (金) 18:24
- ナポレオン戦争 (カテゴリ イギリスの戦争)年)、エジプト遠征(1798–1801年)を含めることもある。 ナポレオン戦争はフランス革命戦争後の混乱期に始まった。フランス軍を率いたナポレオンは一時期ヨーロッパの大半を征服したが、スペイン独立戦争とロシア遠征で敗退し、ワーテルローの戦いにおいて決定的敗北を喫した。1815年11月20日の…58キロバイト (6,908 語) - 2024年11月13日 (水) 05:51
- アイルランド (アイルランドの人口統計からのリダイレクト)の使用は、その発言を受け入れたものとして採用された。1937年の憲法第1条、第2条と呼ばれるようになったものにあるその記述は、1999年に削除された。 その年から、1949年4月に共和国が宣言されるまで、アイルランドは当時のイギリス連邦の加盟地域であり続けた。イギリス連邦の…193キロバイト (23,522 語) - 2024年11月4日 (月) 05:04
- 人口 (カテゴリ すべてのスタブ記事)population)は、ある人間集団の総体を指す概念であり、またその集団を構成する人間の総数を指す統計上の概念である。人口の計測方法や変動を研究する学問は、人口統計学と呼ばれる。 イギリスの経済学者であるトマス・ロバート・マルサスは、1798年に『人口論』を著し、人口問題を論じた。また、人口の…10キロバイト (1,292 語) - 2024年11月12日 (火) 12:21
- 1798年、ナポレオンは総裁政府にエジプト遠征を進言。これが認められ、ナポレオンはエジプトに上陸。陸では戦勝を重ねるが、海では敗北。フランスから切り離されてしまった。しかし、フランスでの総裁政府に対する風当たりが強まって来るや、ナポレオンは少数の部下とともにエジプトを脱出。ブリュメール18日の
- の屋根の上でゆっくりとぎこちなく顔を出していた不思議な腕は、誰もが覚えていることだろう。イギリスで400のフレーズと文字からなる適切な海上電信語が導入されたのは、1798年のことであった。今は2000年くらいまで上がっているが、よくわからない。兵士がベースラインを形成し、彼のライフル、髪の
- ウィリアム・ワーズワス(William Wordsworth, 1770年-1850年)は、イギリスの代表的なロマン派詩人。 「子供は大人の父」 ("The Child is father of the Man") My heart leaps up when I behold A rainbow in