「人生」の版間の差分

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人生観についての内容を変更しました。以前の記述では、たった一人の著者の情報ソースをもとに説明されていたので、そのほかの有名人の発言や現代の人間の生き方、在り方をもととして、より掘り下げた内容にしました。
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[[飯田史彦]]はある著書で、人生を一種の学校だととらえることができるとしている。壁を乗り越えることに意味があると考えるのではなく、壁があることに意味があり、壁に挑戦しているだけでもすでに意味がある、と考えることで、人生で起きるすべての出来事に意味があると考えつつ人生を前向きに生きてゆくことができる、と説明している<ref name="iida_jinsei">{{Cite book|和書|author= 飯田史彦|year= 2003|title= 人生の価値: 私たちは、どのように生きるべきか|publisher= PHP出版|id= ISBN 4569660401}}</ref>。また、飯田は別の著書で「[[輪廻|自分たちは、ある法則のもとで人生を何度も繰り返しながら成長している]]」という人生観は人生について最も豊穣な意味づけを可能にする、と述べている<ref name="iida_spi_edu">{{Cite book|和書|author= 飯田史彦、吉田武男|title= スピリチュァリティ教育のすすめ: 「生きる意味」を問い「つながり感」を構築する本質的教育とは|publisher= PHP研究所|year= 2009}}</ref>。この人生観を採用すると、「今の人生は、次の人生の下地となるものなのだから、今回の人生を日々大切に生きよう。そうすればその努力は次の人生に反映されるのだ」と希望を持って努力することができるという<ref name="iida_spi_edu" />。
[[飯田史彦]]はある著書で、人生を一種の学校だととらえることができるとしている。壁を乗り越えることに意味があると考えるのではなく、壁があることに意味があり、壁に挑戦しているだけでもすでに意味がある、と考えることで、人生で起きるすべての出来事に意味があると考えつつ人生を前向きに生きてゆくことができる、と説明している<ref name="iida_jinsei">{{Cite book|和書|author= 飯田史彦|year= 2003|title= 人生の価値: 私たちは、どのように生きるべきか|publisher= PHP出版|id= ISBN 4569660401}}</ref>。また、飯田は別の著書で「[[輪廻|自分たちは、ある法則のもとで人生を何度も繰り返しながら成長している]]」という人生観は人生について最も豊穣な意味づけを可能にする、と述べている<ref name="iida_spi_edu">{{Cite book|和書|author= 飯田史彦、吉田武男|title= スピリチュァリティ教育のすすめ: 「生きる意味」を問い「つながり感」を構築する本質的教育とは|publisher= PHP研究所|year= 2009}}</ref>。この人生観を採用すると、「今の人生は、次の人生の下地となるものなのだから、今回の人生を日々大切に生きよう。そうすればその努力は次の人生に反映されるのだ」と希望を持って努力することができるという<ref name="iida_spi_edu" />。

とはいっても、人生というものは個人によってとらえ方が大きく異なる。生まれてきた価値観や育ってきた環境。その中で紡ぎ出される思想などは各人や組織によって違う。野村克也は自身の著書で人生とは他人に活かされるものだと語っており、事業化であり経済評論家の木戸隆太は[https://onzoushi.com/2020/08/16/jinseitukareta/ 人生とは基本的に疲れるもの]だと語っている。その他の著名人や有名人の見解も実のところ、大きな相違があるのである。そのため、今日まで人生について明確な答えを出せた人物、宗教はいないと言える。また、現代は昔とは違い枷となるカーストがなくなり自由な発想が許されるようになった。現代社会において、人生観とは詰まるところ、人の数だけ人の生き方がある。ということである。


== 出典 ==
== 出典 ==

2020年12月20日 (日) 15:29時点における版

女性の人生。(1849年、米国)

人生(じんせい)とは、人間この世で生きることや、生きている時間経験などのことである。人生に対する見方や、人生の意味の理解のしかたを人生観という。


人生観

西洋では聖書が人々に豊穣な人生観を提示してきた。東洋では仏典の中に同様の役割を果たすものがある。たとえば法華経は多くの人々に人生を生きる意味を教えている。[要出典]

飯田史彦はある著書で、人生を一種の学校だととらえることができるとしている。壁を乗り越えることに意味があると考えるのではなく、壁があることに意味があり、壁に挑戦しているだけでもすでに意味がある、と考えることで、人生で起きるすべての出来事に意味があると考えつつ人生を前向きに生きてゆくことができる、と説明している[1]。また、飯田は別の著書で「自分たちは、ある法則のもとで人生を何度も繰り返しながら成長している」という人生観は人生について最も豊穣な意味づけを可能にする、と述べている[2]。この人生観を採用すると、「今の人生は、次の人生の下地となるものなのだから、今回の人生を日々大切に生きよう。そうすればその努力は次の人生に反映されるのだ」と希望を持って努力することができるという[2]

とはいっても、人生というものは個人によってとらえ方が大きく異なる。生まれてきた価値観や育ってきた環境。その中で紡ぎ出される思想などは各人や組織によって違う。野村克也は自身の著書で人生とは他人に活かされるものだと語っており、事業化であり経済評論家の木戸隆太は人生とは基本的に疲れるものだと語っている。その他の著名人や有名人の見解も実のところ、大きな相違があるのである。そのため、今日まで人生について明確な答えを出せた人物、宗教はいないと言える。また、現代は昔とは違い枷となるカーストがなくなり自由な発想が許されるようになった。現代社会において、人生観とは詰まるところ、人の数だけ人の生き方がある。ということである。

出典

  1. ^ 飯田史彦『人生の価値: 私たちは、どのように生きるべきか』PHP出版、2003年。ISBN 4569660401 
  2. ^ a b 飯田史彦、吉田武男『スピリチュァリティ教育のすすめ: 「生きる意味」を問い「つながり感」を構築する本質的教育とは』PHP研究所、2009年。 

関連項目