「織田長孝」の版間の差分

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[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]で父と共に東軍に与し、西軍の武将である[[戸田重政]]を討ち取るという武功を挙げたことから、戦後に美濃野村において1万石の所領を与えられた。
[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]で父と共に東軍に与し、西軍の武将である[[戸田重政]]を討ち取るという武功を挙げたことから、戦後に美濃野村において1万石の所領を与えられた。


1606年7月5日に死去し、法号は照巌玄高。
1606年7月5日に死去法号は照巌玄高。

[[野村藩]]嫡男の[[織田長則]]が継ぎ、次男長光は[[加賀藩]]前田八家[[村井長次]]の養嗣となった。
[[野村藩]]嫡男の[[織田長則]]が継ぎ、次男・[[織田長光]]は[[加賀藩]]前田八家[[村井長次]]の養嗣となった。


[[Category:織田氏|なかたか]]
[[Category:織田氏|なかたか]]

2006年9月12日 (火) 09:53時点における版

織田 長孝おだ ながたか、? - 慶長11年7月5日1606年8月8日))は、戦国時代武将江戸時代前期の大名で、美濃野村藩の初代藩主。父は織田信長の弟・織田有楽斎で、信長の甥に当たる。官位は従五位下。河内守。名は長一ながかず)とも。

1600年関ヶ原の戦いで父と共に東軍に与し、西軍の武将である戸田重政を討ち取るという武功を挙げたことから、戦後に美濃野村において1万石の所領を与えられた。

1606年7月5日に死去。法号は照巌玄高。

野村藩は嫡男の織田長則が継ぎ、次男・織田長光加賀藩前田八家の村井長次の養嗣子となった。