「ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ」の版間の差分
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ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエは、[[和協信条]]の起草者として名高いヤーコプ・アンドレーエの息子ヨーハン・アンドレーエと僧院管理人ヴァレンティン・モーザーの娘マリーアとの間に1586年8月17日ヘレンベルクに生まれた<ref>[[#種村(1993)|種村(1993)]] pp.298-300</ref>。 |
ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエは、[[和協信条]]の起草者として名高いヤーコプ・アンドレーエの息子ヨーハン・アンドレーエと僧院管理人ヴァレンティン・モーザーの娘マリーアとの間に1586年8月17日ヘレンベルクに生まれた<ref>[[#種村(1993)|種村(1993)]] pp.298-300</ref>。 |
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生誕の地であるヘレンベルグの生活は短く、まもなくハイデンハイム近傍ケーニヒスブロンに移ることとなる。はじめ父親が校長をしていた教会学校に通ったが、病気がちで脾弱だったことから、同じ年頃の遊びの仲間入りができず、様々な本を読みながら歴史、機械工学、建築技術に熱中してゆくこととなる。1601年に父親ヨーハン・アンドレーエが早逝したことから、一家はヴュルテンベルク第二の都市 |
生誕の地であるヘレンベルグの生活は短く、まもなくハイデンハイム近傍ケーニヒスブロンに移ることとなる。はじめ父親が校長をしていた教会学校に通ったが、病気がちで脾弱だったことから、同じ年頃の遊びの仲間入りができず、様々な本を読みながら歴史、機械工学、建築技術に熱中してゆくこととなる。1601年に父親ヨーハン・アンドレーエが早逝したことから、一家は[[ヴュルテンベルク]]第二の都市[[テュービンゲン]]に移住し、ヨハンは[[テュービンゲン大学]]に通うことになる。 |
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2019年5月22日 (水) 07:12時点における版
ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ(Johann Valentin Andreae, 1586年 - 1654年)は、ドイツの著作家、神学者。作者不詳の薔薇十字団三大基本文書[1]の内、のちに開祖クリスチャン・ローゼンクロイツを主役とした小説『化学の結婚』を著したとされた唯一身元がはっきりしている人物である。
生涯
ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエは、和協信条の起草者として名高いヤーコプ・アンドレーエの息子ヨーハン・アンドレーエと僧院管理人ヴァレンティン・モーザーの娘マリーアとの間に1586年8月17日ヘレンベルクに生まれた[2]。
生誕の地であるヘレンベルグの生活は短く、まもなくハイデンハイム近傍ケーニヒスブロンに移ることとなる。はじめ父親が校長をしていた教会学校に通ったが、病気がちで脾弱だったことから、同じ年頃の遊びの仲間入りができず、様々な本を読みながら歴史、機械工学、建築技術に熱中してゆくこととなる。1601年に父親ヨーハン・アンドレーエが早逝したことから、一家はヴュルテンベルク第二の都市テュービンゲンに移住し、ヨハンはテュービンゲン大学に通うことになる。
脚注
関連項目
- 薔薇十字団 - 錬金術 - 化学の結婚
- ヨハネス・アモス・コメニウス
参考文献
- ヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーエ 著、種村季弘(訳・解説) 編『化学の結婚 付・薔薇十字基本文書』1993年。