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'''長艸 敏明'''(ながくさ としあき、[[1948年]] - )は[[刺繍]]作家・着物[[デザイナー]]・京繍[[伝統工芸士]]。[[京都]][[西陣]]生まれ。
'''長艸 敏明'''(ながくさ としあき、[[1948年]] - )は[[刺繍]]作家・着物[[デザイナー]]・京繍[[伝統工芸士]]。[[京都]][[西陣]]生まれ。


[[京刺繍]]職人であった父・長艸芳之助の次男として、[[立命館大学]][[経営学部]]を経て、[[日本刺繍]]の世界へ。以後、世界を舞台に幅広い分野で活躍。京繍・日本刺繍の幽玄の美を世界に伝えるとともに、多くのデザイナーに影響を与えている。
[[京刺繍]]職人であった父・長艸芳之助の次男として、[[立命館大学]][[経営学部]]を経て、[[日本刺繍]]・[[京繍]]の世界へ。以後、世界を舞台に幅広い分野で活躍。京繍・日本刺繍の幽玄の美を世界に伝えるとともに、多くのデザイナーに影響を与えている。

40代で一職人としてではなく、刺繍作家としての着物のオートクチュール事業を起こし、旧態依然とした呉服業界の流通システムに一石を投じた。
40代で一職人としてではなく、刺繍作家としての着物のオートクチュール事業を起こし、旧態依然とした呉服業界の流通システムに一石を投じた。
直接、依頼者と作り手が話し合いながら依頼者に合わせた着物を制作するという、現在では多く見られるスタイルは、当時の呉服問屋業界からは異端視され、制作者から消費者にわたるまでに5倍や10倍になる呉服業界では危険視された。
直接、依頼者と作り手が話し合いながら依頼者に合わせた着物を制作するという、現在では多く見られるスタイルは、当時の呉服問屋業界からは異端視され、制作者から消費者にわたるまでに5倍や10倍になる呉服業界では危険視された。
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日本の皇室とも関わりが深く、皇室デザイナーであった植田いつこ氏より依頼を受け、美智子皇后陛下(当時)のドレスの刺繍など皇室の刺繍を何度も手掛けているが、長艸敏明の意向であまり公にはされていない。
日本の皇室とも関わりが深く、皇室デザイナーであった植田いつこ氏より依頼を受け、美智子皇后陛下(当時)のドレスの刺繍など皇室の刺繍を何度も手掛けているが、長艸敏明の意向であまり公にはされていない。



2018年から京都刺繍協同組合の理事長に就任。
2018年から京都刺繍協同組合の理事長に就任。
2019年に「京の名工」に選ばれている。
2019年に「京の名工」に選ばれている。


妻は[[長艸純恵]]。刺繍作家・着物デザイナー・京繍伝統工芸士。夫の重厚で伝統と革新が詰まった作品に対し、女性的な魅力を持ち、美しくも優しい作品には女性を中心とした多くの愛好者がいる。代表作に繍半襟「源氏物語五十四帖」、繍団扇「花源氏物語」などがある。公私ともに夫を支えており、作家でありながら長艸敏明のプロデューサーという側面もある。京都、東京で刺繍教室を主宰し、夫婦ともに京刺繍の普及に勤めている。


妻は[[長艸純恵]]。刺繍作家・服飾デザイナー・京繍伝統工芸士。夫の重厚で伝統と革新が詰まった作品に対し、女性的な魅力を持ち、美しくも優しい作品には女性を中心とした多くの愛好者がいる。代表作に繍半襟「源氏物語五十四帖」、繍団扇「花源氏物語」などがある。
長男は長艸真吾。関西大学社会学部卒業ののち、再び4年制の京都市立芸術大学美術学部を卒業。論文で市長賞を受賞。
公私ともに夫を支えており、作家でありながら長艸敏明のプロデューサーという側面もある。京都、東京で刺繍教室を主宰し、夫婦ともに京繍の普及に勤めている。

長男は[[長艸真吾]][[関西大学]]社会学部卒業ののち、再び4年制の[[京都市立芸術大学]]美術学部を卒業。論文で市長賞を受賞。
芸術家・アートプロデューサー。長艸敏明の工房「長艸繍巧房」の経営を担う。京繍の長艸としては3代目にあたる。
芸術家・アートプロデューサー。長艸敏明の工房「長艸繍巧房」の経営を担う。京繍の長艸としては3代目にあたる。



2019年5月8日 (水) 13:26時点における版

長艸 敏明(ながくさ としあき、1948年 - )は刺繍作家・着物デザイナー・京繍伝統工芸士京都西陣生まれ。

京刺繍職人であった父・長艸芳之助の次男として、立命館大学経営学部を経て、日本刺繍京繍の世界へ。以後、世界を舞台に幅広い分野で活躍。京繍・日本刺繍の幽玄の美を世界に伝えるとともに、多くのデザイナーに影響を与えている。

40代で一職人としてではなく、刺繍作家としての着物のオートクチュール事業を起こし、旧態依然とした呉服業界の流通システムに一石を投じた。 直接、依頼者と作り手が話し合いながら依頼者に合わせた着物を制作するという、現在では多く見られるスタイルは、当時の呉服問屋業界からは異端視され、制作者から消費者にわたるまでに5倍や10倍になる呉服業界では危険視された。 その影響で仕事が全く依頼されない時期があったが、その頃に多くの作品を生み出し、現在の代表作となっている。のちに本人は、顔が見えるお客様に適正な価格で良いものを手にしていただきたかっただけと語っているが、そのスタイルは現在も引き継がれている。直接依頼していただくことを望んでいるため、流通している商品はごく僅かである。

主な経歴

1994年能衣装・小袖展(パリ・バガテル城、パリ市後援)で、日本よりも先駆けて欧州のデザイナー・芸術家・マスメディアから高い評価を受ける。また、クリスチャン・ディオールの主任デザイナーとしても知られるジョン・ガリアーノのディオール復帰コレクションの際に記者会見で「長艸敏明に影響を受けた」と発言し、話題となった。のちに来日し長艸敏明の工房を訪ねている。同時期にピエールカルダンにも賞賛されている。

1995年エルメス本店(パリ)のディスプレイ、1998年飛騨高山祭・屋台懸装制作(龍・虎)、京都祇園祭白楽天山(見送り幕)修復、2000年パリ・コレクション(シェレルコレクション)協力、2003年相国寺(京都)法被八角龍の修復などを手掛けている。

近年では京都祇園祭の占出山、北観音山などの修復新調を手掛け、日本中の祭に用いられている文化財の刺繍分野における修復依頼を受けている。

能装束などの舞台衣装や歴史的文化財の修復など、伝統文化とその技術を継承し保存する立場を厳しく貫く一方、欧州のコレクションへの協力やタペストリー、ドレス、時計などの刺繍作品・商品の制作は、分野を限定せず、卓越した芸術感覚と技術力によって京刺繍の魅力を発揮させてきたといえる。

日本の皇室とも関わりが深く、皇室デザイナーであった植田いつこ氏より依頼を受け、美智子皇后陛下(当時)のドレスの刺繍など皇室の刺繍を何度も手掛けているが、長艸敏明の意向であまり公にはされていない。

2018年から京都刺繍協同組合の理事長に就任。 2019年に「京の名工」に選ばれている。


妻は長艸純恵。刺繍作家・服飾デザイナー・京繍伝統工芸士。夫の重厚で伝統と革新が詰まった作品に対し、女性的な魅力を持ち、美しくも優しい作品には女性を中心とした多くの愛好者がいる。代表作に繍半襟「源氏物語五十四帖」、繍団扇「花源氏物語」などがある。 公私ともに夫を支えており、作家でありながら長艸敏明のプロデューサーという側面もある。京都、東京で刺繍教室を主宰し、夫婦ともに京繍の普及に勤めている。

長男は長艸真吾関西大学社会学部卒業ののち、再び4年制の京都市立芸術大学美術学部を卒業。論文で市長賞を受賞。 芸術家・アートプロデューサー。長艸敏明の工房「長艸繍巧房」の経営を担う。京繍の長艸としては3代目にあたる。

主な受賞歴

  • 京都染色綜合展・通産省生活産業局長賞(1993年)
  • 三軌会展・文部大臣奨励賞(1994年)

著書

「長艸敏明の刺繍」(世界文化社刊・2012年)

外部リンク