「兒説」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
9行目: 9行目:
|職業= [[稷下の学士]](論者)
|職業= [[稷下の学士]](論者)
|繁体字= 兒説
|繁体字= 兒説
|簡体字=
|簡体字=
|ピン音= ér shuō
|ピン音= shuō
|通用=
|通用=
|注音=
|注音=
|注音二式=
|注音二式=
|和名= げいせつ/げいえ
|和名= げいせつ
|発音= ェ゛ァー シュォ
|発音= ニィー シュォ
|ラテン字= e a sjuo
|ラテン字= ni sjuo
|英語名=
|英語名=
|本名繁体字=
|本名繁体字=
29行目: 29行目:
|本名英語名=
|本名英語名=
}}
}}
'''兒 説'''(げい ぜつ、げい えつ、生没年不明)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の思想家。[[宋 (春秋)|宋]]の出身だが、[[田斉|斉]]に行き、[[稷下の学士]]の一人となった。白は色に名づけられた概念であり、馬は形に名づけられた概念であるからにして、白馬は二つの概念であり、一つの概念である馬とは別物だ、という[[白馬非馬]]説を唱え、[[稷下の学士|稷下]]の学者を降参させたことで有名。兒説はいわゆる[[弁者]]であった。[[白馬非馬]]説は他に[[公孫竜]]によって唱えられたが、兒説のほうが少し先であった。
'''兒 説'''(げい つ、生没年不明)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の思想家。[[宋 (春秋)|宋]]の出身だが、[[田斉|斉]]に行き、[[稷下の学士]]の一人となった。白は色に名づけられた概念であり、馬は形に名づけられた概念であるからにして、白馬は二つの概念であり、一つの概念である馬とは別物だ、という[[白馬非馬]]説を唱え、[[稷下の学士|稷下]]の学者を降参させたことで有名。兒説はいわゆる[[弁者]]であった。[[白馬非馬]]説は他に[[公孫竜]]によって唱えられたが、兒説のほうが少し先であった。


兒説は、
兒説は、

2018年10月24日 (水) 09:09時点における版

兒説
プロフィール
出生: 不詳
死去: 不詳
出身地: 河南省と思われる)
職業: 稷下の学士(論者)
各種表記
繁体字 兒説
簡体字 兒説
拼音 ní shuō
ラテン字 ni sjuo
和名表記: げいせつ
発音転記: ニィー シュォ
テンプレートを表示

兒 説(げい せつ、生没年不明)は、中国戦国時代の思想家。の出身だが、に行き、稷下の学士の一人となった。白は色に名づけられた概念であり、馬は形に名づけられた概念であるからにして、白馬は二つの概念であり、一つの概念である馬とは別物だ、という白馬非馬説を唱え、稷下の学者を降参させたことで有名。兒説はいわゆる弁者であった。白馬非馬説は他に公孫竜によって唱えられたが、兒説のほうが少し先であった。

兒説は、

:;仁は心のみ。己が為にするの心有れば、則ち一言一色、皆な敢へて放(ほし)いままにせず。如もし諸心を事とせずして、以て言を為し、而して其の言を巧みにし、以て人の我を親しまんことを求め、諸心を事とせずして、以て色を為し、而して其の色を善くし、以て人の我を悦ばんことを求めば、則ち外を務めて内を務めず、人の為にして己が為にせず、此の心外に馳せて天理日に喪(うしな)ふ、其れ仁有る者は鮮(すく)なし。

と言ったことでも有名。これは、論語に記されている孔子の言葉、

:;子曰く、 巧言令色、鮮(すく)なし仁。

という言葉から来たものであるらしい。

当時、関所では馬に通行税をかけていた。兒説は白馬に乗っていけば通行税を取られない、と思って白馬に乗っていったが、役人が税を取ろうとした。そこで、兒説は白馬非馬説を唱えたが、役人の方が引かずに、結局通行税を取られてしまった、という話が韓非子に伝えられている。

参考文献

  • 陳舜臣 『中国の歴史2⃣ 大統一時代 漢王朝の光と影』 (東洋印刷/凸版印刷/大口製本印刷1986年)

外部リンク