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1940年(康徳7年)に、[[航空機]][[パイロット (航空)|操縦士]]を養成する「陸軍飛行学校」が開校した。「陸軍」を冠しているが、軍人だけでなく、満州航空の乗組員や飛行家など民間人の操縦要員も教育していた。 |
1940年(康徳7年)に、[[航空機]][[パイロット (航空)|操縦士]]を養成する「陸軍飛行学校」が開校した。「陸軍」を冠しているが、軍人だけでなく、満州航空の乗組員や飛行家など民間人の操縦要員も教育していた。 |
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1941年12月に日本は[[イギリス]]や[[アメリカ]]に宣戦布告し[[大東亜戦争]]に突入したが、満州国は宣戦布告せず、その後も主な戦場から遠く離れた満洲国内は平静を保った。しかし[[1945年]]に入ると、工業地帯や軍の基地などが、[[イギリス領インド帝国]]経由で中華民国内陸部の[[成都]]基地から飛来したアメリカ軍の爆撃機などの攻撃をたびたび受け、これらの爆撃機と満州国飛行隊の[[戦闘機]]との空中戦が行われ、「蘭花特別攻撃隊」という[[特別攻撃隊]]が編成され、アメリカ軍の[[ボーイング]][[B-29_(航空機)|B-29]]に向けて体当たり攻撃を行った。 |
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== 編成 == |
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2018年2月19日 (月) 13:49時点における版
飛行隊(ひこうたい)とは、満州国に設置された満州国軍の航空部隊。
概要
1937年(康徳4年)2月、満州国軍内に飛行隊が発足した。基地は新京の満州航空の飛行場を共同使用する形で設けられ、主な配備機種としては九七式戦闘機、一式戦闘機などがあった。その後、奉天やハルビンにも飛行隊が相次いで設置された。1940年(康徳7年)には、独自の司令部が設けられた。
1940年(康徳7年)に、航空機操縦士を養成する「陸軍飛行学校」が開校した。「陸軍」を冠しているが、軍人だけでなく、満州航空の乗組員や飛行家など民間人の操縦要員も教育していた。
1941年12月に日本はイギリスやアメリカに宣戦布告し大東亜戦争に突入したが、満州国は宣戦布告せず、その後も主な戦場から遠く離れた満洲国内は平静を保った。しかし1945年に入ると、工業地帯や軍の基地などが、イギリス領インド帝国経由で中華民国内陸部の成都基地から飛来したアメリカ軍の爆撃機などの攻撃をたびたび受け、これらの爆撃機と満州国飛行隊の戦闘機との空中戦が行われ、「蘭花特別攻撃隊」という特別攻撃隊が編成され、アメリカ軍のボーイングB-29に向けて体当たり攻撃を行った。
編成
1941年(康徳8年)
- 飛行隊司令部
- 第一飛行隊
- 第二飛行隊
- 第三飛行隊
- 独立飛行隊
- 航空兵器廠
- 陸軍飛行学校
歴代司令官
参考文献
- 満洲国軍刊行委員会編『満洲国軍』蘭星会、1970年