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== 経歴 ==
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初め、[[李朝 (ベトナム)|李朝]]最後の皇帝[[李昭皇]](弟・陳煚(後の太宗)の妻)の実姉[[順天皇后|順天]]を妻として弟を補佐していたが、叔父で陳朝の事実上の最高指導者であった[[陳守度]]と政治の実権を争う。[[1228年]]に[[太尉]]に任ぜられ、[[1234年]]に実父・陳承(太祖)の没後、「顕皇」の称号が与えられ<ref>『大越史記全書』天応政平3年(1234年)条。</ref>、その宮殿であり後に歴代太上皇が住んでいた聖慈宮に住んでいた<ref>『大越史記全書』天応政平5年(1236年)条。</ref>ことから、父の没後に陳朝の太上皇と同格の地位であった、もしくは実際に太上皇の地位に即位していたとする説もある<ref>桃木至朗『中世大越国家の成立と変容』(大阪大学出版会, 2011年2月)P290・292</ref>。
初め、[[李朝 (ベトナム)|李朝]]最後の皇帝[[李昭皇]](弟・陳煚(後の太宗)の妻)の実姉[[順天皇后|李氏罃]](順天公主)を妻として弟を補佐していたが、叔父で陳朝の事実上の最高指導者であった[[陳守度]]と政治の実権を争う。[[1228年]]に[[太尉]]に任ぜられ、[[1234年]]に実父・陳承(太祖)の没後、「顕皇」の称号が与えられ<ref>『大越史記全書』天応政平3年(1234年)条。</ref>、その宮殿であり後に歴代太上皇が住んでいた聖慈宮に住んでいた<ref>『大越史記全書』天応政平5年(1236年)条。</ref>ことから、父の没後に陳朝の太上皇と同格の地位であった、もしくは実際に太上皇の地位に即位していたとする説もある<ref>桃木至朗『中世大越国家の成立と変容』(大阪大学出版会, 2011年2月)P290・292</ref>。


ところが、[[1236年]]に李朝旧妃と通じた疑いをかけられて懐王に落とされ、続いて[[1237年]]に陳守度が、太宗に子供が出来ない事を理由に太宗と李昭皇を離縁させ、代わりに順天を強引に召しだして陳柳と離縁させて、新しい皇后とする。
ところが、[[1236年]]に李朝旧妃と通じた疑いをかけられて懐王に落とされ、続いて[[1237年]]に陳守度が、太宗に子供が出来ない事を理由に太宗と李昭皇を離縁させ、代わりに李氏罃を強引に召しだして陳柳と離縁させて、新しい皇后とする。


これに激怒した陳柳は謀叛の兵を挙げるも、これが陳柳の失脚を図る陳守度の思う壺となり、反乱軍はたちまちのうちに打ち破られてしまう。
これに激怒した陳柳は謀叛の兵を挙げるも、これが陳柳の失脚を図る陳守度の思う壺となり、反乱軍はたちまちのうちに打ち破られてしまう。


太宗の執り成しで陳柳の罪は不問とされて改めて安生王に封じられたが、政治的に失脚した陳柳は陳守度を恨みながら病没したという<ref>陳興道の死去の記事を記した『大越史記全書』興隆9年(1301年)条によれば、陳柳は死去の際に息子(陳興道)に対して「汝不能為我得天下、我死地下不瞑目」と遺言したという。</ref>。
太宗の執り成しで陳柳の罪は不問とされて改めて安生王に封じられたが、政治的に失脚した陳柳は陳守度を恨みながら病没したという<ref>陳興道の死去の記事を記した『大越史記全書』興隆9年(1301年)条によれば、陳柳は死去の際に息子(陳興道)に対して「汝不能為我得天下、我死地下不瞑目」と遺言したという。</ref>。

== 脚注 ==
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2017年9月29日 (金) 07:42時点における版

陳柳
各種表記
漢字チュノム 陳柳
北部発音: チャン・リェウ
日本語読み: ちん りゅう
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陳柳ベトナム語Trần Liễu(チャン・リェウ)、 1211年 - 1251年)は、大越陳朝の王族・武将。陳朝の初代皇帝太宗の実兄である。陳朝の初代太上皇であった陳承(太祖)の長男。子に陳国峻(陳興道)がいる。

経歴

初め、李朝最後の皇帝李昭皇(弟・陳煚(後の太宗)の妻)の実姉李氏罃(順天公主)を妻として弟を補佐していたが、叔父で陳朝の事実上の最高指導者であった陳守度と政治の実権を争う。1228年太尉に任ぜられ、1234年に実父・陳承(太祖)の没後、「顕皇」の称号が与えられ[1]、その宮殿であり後に歴代太上皇が住んでいた聖慈宮に住んでいた[2]ことから、父の没後に陳朝の太上皇と同格の地位であった、もしくは実際に太上皇の地位に即位していたとする説もある[3]

ところが、1236年に李朝旧妃と通じた疑いをかけられて懐王に落とされ、続いて1237年に陳守度が、太宗に子供が出来ない事を理由に太宗と李昭皇を離縁させ、代わりに李氏罃を強引に召しだして陳柳と離縁させて、新しい皇后とする。

これに激怒した陳柳は謀叛の兵を挙げるも、これが陳柳の失脚を図る陳守度の思う壺となり、反乱軍はたちまちのうちに打ち破られてしまう。

太宗の執り成しで陳柳の罪は不問とされて改めて安生王に封じられたが、政治的に失脚した陳柳は陳守度を恨みながら病没したという[4]

脚注

  1. ^ 『大越史記全書』天応政平3年(1234年)条。
  2. ^ 『大越史記全書』天応政平5年(1236年)条。
  3. ^ 桃木至朗『中世大越国家の成立と変容』(大阪大学出版会, 2011年2月)P290・292
  4. ^ 陳興道の死去の記事を記した『大越史記全書』興隆9年(1301年)条によれば、陳柳は死去の際に息子(陳興道)に対して「汝不能為我得天下、我死地下不瞑目」と遺言したという。