「カール・ゲルデラー」の版間の差分
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[[File:Bundesarchiv Bild 151-58-16, Volksgerichtshof, Dr.Carl Goerdeler.jpg|thumb|left|人民法廷で裁判を受けるゲルデラー(起立している人物)。手前左端が[[ローラント・フライスラー]]裁判長]] |
[[File:Bundesarchiv Bild 151-58-16, Volksgerichtshof, Dr.Carl Goerdeler.jpg|thumb|left|人民法廷で裁判を受けるゲルデラー(起立している人物)。手前左端が[[ローラント・フライスラー]]裁判長]] |
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ゲルデラーは[[プロイセン王国]]の役人の息子として{{仮リンク|ポーゼン州|en|Province of Posen}}のシュナイデミュール(現[[ポーランド]]の[[ピワ]])で生まれた。彼は法律を学び、[[第一次世界大戦]]後に[[ドイツ国家人民党]](DNVP)に入党。1920年から10年間、[[東プロイセン]]州の州都[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]の副市長を務めた後、1930年に[[ライプツィヒ]]市長になる。 |
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ゲルデラーは[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の人種政策に反対し、ナチスと協力したDNVPを1931年に離党した。1933年にはゲルデラーはナチスに反対する少数の政治家のうちの一人となった。1936年にナチスが[[ライプツィヒ]]が誇りとする音楽家[[フェリックス・メンデルスゾーン]]の記念碑を[[ユダヤ人]]故に破壊した時、ゲルデラーは再建に尽力した。その後、彼は再選を求めず市長職を辞職した。 |
ゲルデラーは[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の人種政策に反対し、ナチスと協力したDNVPを1931年に離党した。1933年にはゲルデラーはナチスに反対する少数の政治家のうちの一人となった。1936年にナチスが[[ライプツィヒ]]が誇りとする音楽家[[フェリックス・メンデルスゾーン]]の記念碑を[[ユダヤ人]]故に破壊した時、ゲルデラーは再建に尽力した。その後、彼は再選を求めず市長職を辞職した。 |
2017年2月17日 (金) 12:48時点における版
カール・フリードリヒ・ゲルデラー Carl Friedrich Goerdeler | |
---|---|
1925年 | |
生年月日 | 1884年7月31日 |
出生地 |
ドイツ帝国 プロイセン王国 ポーゼン州シュナイデミュール |
没年月日 | 1945年2月2日(60歳没) |
死没地 |
ドイツ国 プロイセン州 ベルリン |
所属政党 | ドイツ国家人民党 |
ライプツィヒ市長 | |
在任期間 | 1933年 - 1937年 |
カール・フリードリヒ・ゲルデラー(Carl Friedrich Goerdeler, 1884年7月31日 - 1945年2月2日)は、ドイツの政治家。反ナチス活動家。第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加わるが、失敗して処刑された。
経歴
ゲルデラーはプロイセン王国の役人の息子としてポーゼン州のシュナイデミュール(現ポーランドのピワ)で生まれた。彼は法律を学び、第一次世界大戦後にドイツ国家人民党(DNVP)に入党。1920年から10年間、東プロイセン州の州都ケーニヒスベルクの副市長を務めた後、1930年にライプツィヒ市長になる。
ゲルデラーはナチスの人種政策に反対し、ナチスと協力したDNVPを1931年に離党した。1933年にはゲルデラーはナチスに反対する少数の政治家のうちの一人となった。1936年にナチスがライプツィヒが誇りとする音楽家フェリックス・メンデルスゾーンの記念碑をユダヤ人故に破壊した時、ゲルデラーは再建に尽力した。その後、彼は再選を求めず市長職を辞職した。
ゲルデラーは反ヒトラー活動を進め、ヒトラー政権打倒の暁には首相に予定されていた。しかし彼は保守的で君主制に賛意を示し、経済的にはリベラルで、反共産主義的であり、ヒトラー暗殺に反対したことからクライザウ・サークルの若手の反ナチス活動家達から拒否された。
1944年7月17日にゲルデラーの逮捕状が出され、8月12日に投宿した旅館の主人によって密告され逮捕された。彼は9月9日死刑が宣告されたが、他の共謀者を自白させようとしたゲシュタポによって何か月も拷問を受けた。彼は1945年2月2日にベルリン・プレッツェンゼー刑務所で断頭台によって処刑された。