「マグダレーナ・フォン・ブランデンブルク (1582-1616)」の版間の差分

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ブランデンブルク選帝侯[[ヨハン・ゲオルク (ブランデンブルク選帝侯)|ヨハン・ゲオルク]]とその3番目の妻で[[アンハルト公国|アンハルト]]侯[[ヨアヒム・エルンスト (アンハルト侯)|ヨアヒム・エルンスト]]の娘である[[エリーザベト・フォン・アンハルト (1563-1607)|エリーザベト]]の間の第2子、長女として生まれた。1588年にルートヴィヒ5世と婚約し、翌1598年6月5日に結婚した。ただし同年の年明けに父が亡くなっていたため、婚礼は地味なものとなった<ref>Samuel Buchholtz: ''Versuch einer Geschichte der Churmarck Brandenburg von der ersten Erscheinung der deutschen Sennonen an bis auf jezige Zeiten'', Band 3-4, F. W. Birnstiel, 1767, S. 489</ref>。
ブランデンブルク選帝侯[[ヨハン・ゲオルク (ブランデンブルク選帝侯)|ヨハン・ゲオルク]]とその3番目の妻で[[アンハルト公国|アンハルト]]侯[[ヨアヒム・エルンスト (アンハルト侯)|ヨアヒム・エルンスト]]の娘である[[エリーザベト・フォン・アンハルト (1563-1607)|エリーザベト]]の間の第2子、長女として生まれた。1588年にルートヴィヒ5世と婚約し、翌1598年6月5日に結婚した。ただし同年の年明けに父が亡くなっていたため、婚礼は地味なものとなった<ref>Samuel Buchholtz: ''Versuch einer Geschichte der Churmarck Brandenburg von der ersten Erscheinung der deutschen Sennonen an bis auf jezige Zeiten'', Band 3-4, F. W. Birnstiel, 1767, S. 489</ref>。


1616年、[[ナウムブルク]]での諸侯の集いに出席した直後に34歳の若さで死去した。夫のルートヴィヒは愛妻の死に衝撃を受け、1618年から1619年にかけて[[ローマ]]巡礼に赴いたが、領民たちからは[[カトリック教会|カトリック]]に宗旨替えする気ではないかと疑われた。マグダレーナはヘッセン邦立図書館(現在は[[ヘッセン州立図書館]])に数多くの神学書・歴史書のコレクションを遺贈した<ref>''Archiv für hessische Geschichte und Altertumskunde'', Historischer Verein für Hessen, 1867, S. 522 ([http://books.google.com/books?id=uVsAAAAAcAAJ&pg=PA522 Digitalisat])</ref>。
1616年、[[ナウムブルク]]での諸侯の集いに出席した直後に34歳で死去した。夫のルートヴィヒは愛妻の死に衝撃を受け、1618年から1619年にかけて[[ローマ]]巡礼に赴いたが、領民たちからは[[カトリック教会|カトリック]]に宗旨替えする気ではないかと疑われた。マグダレーナはヘッセン邦立図書館(現在は[[ヘッセン州立図書館]])に数多くの神学書・歴史書のコレクションを遺贈した<ref>''Archiv für hessische Geschichte und Altertumskunde'', Historischer Verein für Hessen, 1867, S. 522 ([http://books.google.com/books?id=uVsAAAAAcAAJ&pg=PA522 Digitalisat])</ref>。


== 子女 ==
== 子女 ==

2016年12月6日 (火) 11:52時点における版

ヘッセン=ダルムシュタット方伯夫人マグダレーナ

マグダレーナ・フォン・ブランデンブルクMagdalena von Brandenburg, 1582年1月7日 ベルリン - 1616年5月4日 ダルムシュタット)は、ドイツブランデンブルク選帝侯家の公女で、ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世の妻。

ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルクとその3番目の妻でアンハルトヨアヒム・エルンストの娘であるエリーザベトの間の第2子、長女として生まれた。1588年にルートヴィヒ5世と婚約し、翌1598年6月5日に結婚した。ただし同年の年明けに父が亡くなっていたため、婚礼は地味なものとなった[1]

1616年、ナウムブルクでの諸侯の集いに出席した直後に34歳で死去した。夫のルートヴィヒは愛妻の死に衝撃を受け、1618年から1619年にかけてローマ巡礼に赴いたが、領民たちからはカトリックに宗旨替えする気ではないかと疑われた。マグダレーナはヘッセン邦立図書館(現在はヘッセン州立図書館)に数多くの神学書・歴史書のコレクションを遺贈した[2]

子女

夫との間に5男6女の11人の子女をもうけた。

  • エリーザベト・マグダレーナ(1600年 - 1624年) - 1617年、ヴュルテンベルク=メンペルガルト公ルートヴィヒ・フリードリヒと結婚
  • アンナ・エレオノーレ(1601年 - 1659年) - 1617年、ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公ゲオルクと結婚
  • マリー(1602年 - 1610年)
  • ゾフィー・アグネス(1604年 - 1664年) - 1624年、プファルツ=ヒルポルトシュタイン公ヨハン・フリードリヒと結婚
  • ゲオルク2世(1605年 - 1661年) - ヘッセン=ダルムシュタット方伯
  • ユリアーネ(1606年 - 1659年) - 1631年、オストフリースラント伯ウルリヒ2世と結婚
  • アマーリエ(1607年 - 1627年)
  • ヨハン(1609年 - 1651年) - ヘッセン=ブラウバッハ方伯
  • ハインリヒ(1612年 - 1629年)
  • ヘートヴィヒ(1613年 - 1614年)
  • ルートヴィヒ(1614年)
  • フリードリヒ(1616年 - 1682年) - ブレスラウ司教、枢機卿

参考文献

  • Christoph von Rommel: Geschichte von Hessen, Krieger, 1837, S. 236 (Digitalisat)
  • Wilhelm Adolf Schmidt: Allgemeine Zeitschrift für Geschichte, Veit und Comp., 1846, S. 87 (Digitalisat)
  • Ernst Daniel Martin Kirchner: Die Churfürstinnen und Königinnen auf dem Throne der Hohenzollern, Wiegandt & Grieben, 1867, S. 61

外部リンク

脚注

  1. ^ Samuel Buchholtz: Versuch einer Geschichte der Churmarck Brandenburg von der ersten Erscheinung der deutschen Sennonen an bis auf jezige Zeiten, Band 3-4, F. W. Birnstiel, 1767, S. 489
  2. ^ Archiv für hessische Geschichte und Altertumskunde, Historischer Verein für Hessen, 1867, S. 522 (Digitalisat)