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'''今井 寿道'''(いまい としみち、[[1863年]][[11月12日]]([[文久]]3年[[10月2日]]) - [[1919年]]([[大正]]8年)[[9月3日]])は、[[日本聖公会]]・[[聖公会神学院]]の初代校長である。 |
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[[幕末]]の[[江戸]]・[[芝 (東京都港区)|芝]]で医師の[[今井玄斎]]の息子として生まれる。幼少期から[[漢学]]を修める。[[1876年]]([[明治]]9年)[[神谷町]]の小学校助教をしていた頃に、[[アレクサンダー・クロフト・ショー|A・C・ショウ]][[宣教師]]から[[英学]]を学び、ショウの聖教舎の課程を修めて、[[1881年]](明治14年)に卒業する。 |
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ショウの協力者として[[聖アンデレ教会]]で働く。[[1887年]](明治20年)に日本聖公会組織成立総会より、第12回総会まで代議員として、日本聖公会の指導的な役割を果たす。[[1888年]](明治21年)に[[執事]]としての按手礼を受ける。[[ビカーステス]]主教を助けて[[香蘭女学校]]を設立して初代校長になり、[[1903年]](明治36年)まで同女学校の基礎を建て上げる。 |
ショウの協力者として[[聖アンデレ教会]]で働く。[[1887年]](明治20年)に日本聖公会組織成立総会より、第12回総会まで代議員として、日本聖公会の指導的な役割を果たす。[[1888年]](明治21年)に[[執事]]としての[[按手|按手礼]]を受ける。[[ビカーステス]][[主教]]を助けて[[香蘭女学校中等科・高等科|香蘭女学校]]を設立して初代校長になり、[[1903年]](明治36年)まで同女学校の基礎を建て上げる。 |
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[[1889年]](明治22年)に創刊された『[[日曜叢誌]]』の編集を行った。後に、[[被差別部落]]問題について『日曜叢誌』で取り上げて、被差別部落の[[福音伝道|伝道]]と救済のために、相愛伝道会([[招友義会]])を設立する。 |
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また、[[1889年]](明治22年)に[[司祭]]の按手礼を受ける。また、[[1894年]](明治27年)には聖アンデレ教会主任[[牧師]]になり、1904年まで働く。[[1902年]](明治35年)には[[聖教社神学校]]開校に携わり、初代校長に就任する。その間、『日本聖公会祈祷書』の審査委員、『[[古今聖歌集]]』改訂委員などを務め、聖公会礼拝書の基盤を作った。晩年には、目白聖公会を設立し、自給教会にする。 |
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2014年4月8日 (火) 10:09時点における版
今井 寿道 | |
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生誕 |
1863年11月12日 日本・江戸 |
死没 |
1919年9月3日(55歳没) 日本・東京 |
職業 | 司祭、神学校教師 |
配偶者 | 今井富美子 |
子供 | 今井信道 |
今井 寿道(いまい としみち、1863年11月12日(文久3年10月2日) - 1919年(大正8年)9月3日)は、日本聖公会・聖公会神学院の初代校長である。
幕末の江戸・芝で医師の今井玄斎の息子として生まれる。幼少期から漢学を修める。1876年(明治9年)神谷町の小学校助教をしていた頃に、A・C・ショウ宣教師から英学を学び、ショウの聖教舎の課程を修めて、1881年(明治14年)に卒業する。
ショウの協力者として聖アンデレ教会で働く。1887年(明治20年)に日本聖公会組織成立総会より、第12回総会まで代議員として、日本聖公会の指導的な役割を果たす。1888年(明治21年)に執事としての按手礼を受ける。ビカーステス主教を助けて香蘭女学校を設立して初代校長になり、1903年(明治36年)まで同女学校の基礎を建て上げる。
1889年(明治22年)に創刊された『日曜叢誌』の編集を行った。後に、被差別部落問題について『日曜叢誌』で取り上げて、被差別部落の伝道と救済のために、相愛伝道会(招友義会)を設立する。
また、1889年(明治22年)に司祭の按手礼を受ける。また、1894年(明治27年)には聖アンデレ教会主任牧師になり、1904年まで働く。1902年(明治35年)には聖教社神学校開校に携わり、初代校長に就任する。その間、『日本聖公会祈祷書』の審査委員、『古今聖歌集』改訂委員などを務め、聖公会礼拝書の基盤を作った。晩年には、目白聖公会を設立し、自給教会にする。
著作
- 『基督教沿革史 上下』(1890年、1891年)
- 『神学階悌』(1891年)
- 『聖公会政治要論』(1911年)
- 『実践の協議』(1909年)