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'''山田 景隆'''(やまだ かげたか))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武士。[[今川家]]の家臣で今川軍中陣左翼大将。[[岡崎城]]代を勤めた。今川家三河奉行人。通称は'''右近衛門尉'''(うこのえもんじょう)、新右衛門尉(しんえもんのじょう)。
'''山田 景隆'''(やまだ かげたか))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武士。[[今川家]]の家臣で今川軍中陣左翼大将。今川家譜代家老衆の一人。[[岡崎城]]代を勤めた。今川家三河奉行人。通称は'''右近衛門尉'''(うこのえもんじょう)、新右衛門尉(しんえもんのじょう)。


家紋は丸に二つ引([[引両紋]])足利系今川引両紋。清和源氏系統か。
家紋は丸に二つ引([[引両紋]])足利系今川引両紋。清和源氏系統か。

2014年3月1日 (土) 00:31時点における版

 
山田景隆
時代 戦国時代
死没 1567年?
別名 通称:右近衛門尉、新右衛門尉
主君 今川義元
駿河 三河
特記
事項
軍位 : 今川軍中陣左翼大将
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山田 景隆(やまだ かげたか))は、戦国時代の武士。今川家の家臣で今川軍中陣左翼大将。今川家譜代家老衆の一人。岡崎城代を勤めた。今川家三河奉行人。通称は右近衛門尉(うこのえもんじょう)、新右衛門尉(しんえもんのじょう)。

家紋は丸に二つ引(引両紋)足利系今川引両紋。清和源氏系統か。

経歴

桶狭間の戦いとその後

永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いの際、岡崎城に陣を構えた景隆等に同日14時頃今川義元討ち死にの噂が流れる。そうして、義元戦死の情報が確実なものになると今川軍の各武将等は反転攻勢かと思われたがそうではなかった。景隆等は、織田軍の決死の総攻撃に耐え今川軍の多くの兵の命を救ったという。そしてこの時19歳の松平元康(後の徳川家康)の存在が反転攻勢を仕掛けなかった原因だと言われている。

元康は、大高城で義元討死の情報を得たものの、「何方よりモ聢トシタル事無内ハ、兎角に退カせラレ間敷」(『三河物語』)と言って、確実な情報が得られるまでは動かず、さすがに慎重な様子が窺い知れる。翌20日、元康は岡崎まで兵を引き、岡崎城近くの大樹寺に兵を収めた。そして、岡崎城中の今川軍が駿河へ引きあげたのを見届けて、「捨城ナラバ拾ハン」(『三河物語』)と言って、岡崎城に入り、12年にも及ぶ人質生活から解放された。

結果的に義元戦死直後、今川軍の武将等は反転攻勢をするのではなく後の家康と信長の何とも言えないアンバランスになることを見定め、人質から解放された家康を起てること。そして無謀な反転攻勢して今川系を絶やさないためにも、景隆をはじめ、各武将等は陣地、城を明け渡すことにした。この選択が功を奏し、戦い後10年近く今川としての領地を守ることにつながった。その後は後北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残し、今川家の滅亡は避けることができた。

勢力と影響

松平忠茂を後援。織田家に近い桜井松平家大給松平家を圧迫した。

各家臣のその後

今川に仕えた朝比奈氏山田氏吉良氏由比氏岡部氏天野氏など多くの家臣等の子孫の多くが今も今川家ゆかりの地静岡県に多く在住しているという。

歴史資料

  • 「河手若宮鰐口」 - この鰐口は銘文に「河若手宮鰐口大旦那宗泰新次郎景隆 天文二十二年(1553年)霜月吉日」とある。宗泰新次郎景隆とは、今川氏に仕え勢力を揮った山田景隆のことである。山田氏の歴史資料としてとても貴重なものである(豊田市博物館)。
  • 「岡崎城代山田景隆等連署血判起請文」(観泉寺所蔵文書)