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[[天正]]6年([[1578年]])の父の死の前後くらいから家督を継ぎ、[[横瀬氏|由良氏]]の第9代当主となった。同年、[[御館の乱]]により[[北条氏政]]と[[武田勝頼]]が敵対すると、[[佐竹氏]]、[[里見氏]]なども[[武田氏]]と同盟を結び、上州はその主戦場となった。由良氏は父・成繁の代に[[上杉氏]]から[[後北条氏]]に転じており、国繁と弟・長尾顕長は北条氏と誼を通じていたが、天正7年([[1579年]])11月には佐竹方とも連絡をとり<ref>紀伊国藩中古文書十二</ref>、北条氏政に北条家滅亡を危惧させた<ref>木村孫平氏所蔵文書</ref>。しかし、国繁らは最終的には北条方に留まり、天正8年([[1580年]])9月には武田勢、佐竹勢から攻撃を受けた<ref>上杉家文書</ref>。
[[天正]]6年([[1578年]])の父の死の前後くらいから家督を継ぎ、[[横瀬氏|由良氏]]の第9代当主となった。同年、[[御館の乱]]により[[北条氏政]]と[[武田勝頼]]が敵対すると、[[佐竹氏]]、[[里見氏]]なども[[武田氏]]と同盟を結び、上州はその主戦場となった。由良氏は父・成繁の代に[[上杉氏]]から[[後北条氏]]に転じており、国繁と弟・長尾顕長は北条氏と誼を通じていたが、天正7年([[1579年]])11月には佐竹方とも連絡をとり<ref>紀伊国藩中古文書十二</ref>、北条氏政に北条家滅亡を危惧させた<ref>木村孫平氏所蔵文書</ref>。しかし、国繁らは最終的には北条方に留まり、天正8年([[1580年]])9月には武田勢、佐竹勢から攻撃を受けた<ref>上杉家文書</ref>。


天正10年([[1582年]])、甲斐武田氏が[[織田氏]]に滅ぼされると国繁兄弟は、他の上野国衆と同様に[[織田信長]]の重臣・[[滝川一益]]に仕えたが、同年[[本能寺の変]]で信長が横死すると、北条方へ転じ[[神流川の戦い]]では一益と敵対した<ref>松平義行氏所蔵文書</ref>。
天正10年([[1582年]])、甲斐武田氏が[[織田氏]]に滅ぼされると国繁兄弟は、他の上野国衆と同様に[[織田信長]]の重臣・[[滝川一益]]に仕えたが、同年[[本能寺の変]]で信長が横死すると、6月20日の[[神流川の戦い]]では滝川方として戦ったが<ref>神流川合戦記</ref>、これに滝川一益が敗北する、北条方へ転じた<ref>松平義行氏所蔵文書六月二十二日「由良長尾向此口手切働可成之由」</ref>。


天正11年([[1583年]])9月、北条氏が離反した[[北条高広]]が篭る[[厩橋城]]を攻め落とすと、国繁兄弟は祝辞のために厩橋城の[[北条氏直]]に出仕した。その際に氏直は佐竹氏を攻めるため、[[新田金山城|金山城]]と[[館林城]]の借用を申し出、兄弟はこれを承知したが、これに反発した家臣は国繁らの母・妙印尼を擁立して籠城したため、兄弟は[[小田原城]]に幽閉されてしまう<ref>石川忠総留書</ref>。篭城勢は[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]、[[佐野宗綱]]と結び、北条方であった[[小泉城]]の[[富岡秀長]]を攻め立てるが、同年冬の北条方の攻勢により落城した。
天正11年([[1583年]])9月、北条氏が離反した[[北条高広]]が篭る[[厩橋城]]を攻め落とすと、国繁兄弟は祝辞のために厩橋城の[[北条氏直]]に出仕した。その際に氏直は佐竹氏を攻めるため、[[新田金山城|金山城]]と[[館林城]]の借用を申し出、兄弟はこれを承知したが、これに反発した家臣は国繁らの母・妙印尼を擁立して籠城したため、兄弟は[[小田原城]]に幽閉されてしまう<ref>石川忠総留書</ref>。篭城勢は[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]、[[佐野宗綱]]と結び、北条方であった[[小泉城]]の[[富岡秀長]]を攻め立てるが、同年冬の北条方の攻勢により落城した。

2013年11月10日 (日) 14:52時点における版

由良 国繁(ゆら くにしげ、天文19年(1550年) - 慶長16年1月3日1611年2月15日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将由良成繁赤井重秀の娘妙印尼の嫡男。弟に渡瀬繁詮長尾顕長。正妻は結城晴朝の娘。子に貞繁忠繁、女子(長尾宣景室)。幼名は国寿丸。通称は六郎、新六郎、官位は式部大輔信濃守

生涯

天文19年(1550年) 、由良成繁の嫡男として誕生。

天正6年(1578年)の父の死の前後くらいから家督を継ぎ、由良氏の第9代当主となった。同年、御館の乱により北条氏政武田勝頼が敵対すると、佐竹氏里見氏なども武田氏と同盟を結び、上州はその主戦場となった。由良氏は父・成繁の代に上杉氏から後北条氏に転じており、国繁と弟・長尾顕長は北条氏と誼を通じていたが、天正7年(1579年)11月には佐竹方とも連絡をとり[1]、北条氏政に北条家滅亡を危惧させた[2]。しかし、国繁らは最終的には北条方に留まり、天正8年(1580年)9月には武田勢、佐竹勢から攻撃を受けた[3]

天正10年(1582年)、甲斐武田氏が織田氏に滅ぼされると国繁兄弟は、他の上野国衆と同様に織田信長の重臣・滝川一益に仕えたが、同年本能寺の変で信長が横死すると、6月20日の神流川の戦いでは滝川方として戦ったが[4]、これに滝川一益が敗北すると、北条方へ転じた[5]

天正11年(1583年)9月、北条氏が離反した北条高広が篭る厩橋城を攻め落とすと、国繁兄弟は祝辞のために厩橋城の北条氏直に出仕した。その際に氏直は佐竹氏を攻めるため、金山城館林城の借用を申し出、兄弟はこれを承知したが、これに反発した家臣は国繁らの母・妙印尼を擁立して籠城したため、兄弟は小田原城に幽閉されてしまう[6]。篭城勢は佐竹義重佐野宗綱と結び、北条方であった小泉城富岡秀長を攻め立てるが、同年冬の北条方の攻勢により落城した。

天正13年(1585年)正月、金山城、館林城は当初の予定通り北条氏照に明け渡され、兄弟の知行は安堵され、国繁は柄杓山城(桐生城)、顕長は足利城に本拠を移した。ただし北条方についた黒熊中城の阿久沢氏などには独立されてしまい、実質の領土は減少した。また、天正14年(1586年)正月、長尾顕長は佐野宗綱を討ち佐野領の拝領を北条氏に求めたが、佐野領には北条氏忠が婿養子として入った。そのため、天正15年(1587年)、国繁兄弟はついに佐竹義重に通じ北条氏直に叛旗を翻したが、天正16年(1588年)には降伏、桐生城と足利城は破却され、兄弟は小田原に移された。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原征伐でも、兄弟は小田原城に籠もることを余儀なくされていたが、嫡男の貞繁と母・妙印尼が秀吉に与して功を挙げたことにより、後北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉に仕えた。戦後、妙印尼は秀吉から常陸牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ。秀吉の死後は徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦いに際しては江戸城の守備を命じられた。戦後、下総相馬郡内1600石余を加えられて、合計7000石余を知行した。

慶長16年(1611年)、61歳で死去。貞繁がその跡を継いだ。なお、貞繁と次男忠繁の他に3女があり、うち1人は養女である。

脚注

  1. ^ 紀伊国藩中古文書十二
  2. ^ 木村孫平氏所蔵文書
  3. ^ 上杉家文書
  4. ^ 神流川合戦記
  5. ^ 松平義行氏所蔵文書六月二十二日「由良長尾向此口手切働可成之由」
  6. ^ 石川忠総留書