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'''小川 勝次'''(おがわ かつじ、[[1899年]]([[明治]]32年)[[4月16日]] - [[1988年]]([[昭和]]63年)[[9月7日]])は、[[新潟県]][[高田市]](現・[[上越市]])出身の[[スキー選手]]・指導者。第3代[[全日本スキー連盟]]会長


== 来歴 ==
== 来歴 ==
1911年、郷里で[[テオドール・エードラー・フォン・レルヒ|レルヒ]]少佐の講習会を見学して以来、スキーに親しむようになる。旧制[[新潟県立高田高等学校|高田中学校]]を経て、1923年[[早稲田大学]]商学部卒。中学・大学を通じ[[クロスカントリースキー]]の選手として活躍し、1923年の第1回[[全日本スキー選手権大会]]にも出場している。大学卒業後、[[富士銀行|安田銀行]](現・[[みずほコーポレート銀行]])に入行し、1937年まで勤務。この間、1923年に[[大日本体育協会]]のスキー部員となり、さらに1925年に[[全日本スキー連盟]]が設立されると常務委員となる。その後庶務委員、専務理事を経て、[[第2次大戦]]直後の1946年に副会長となり、日本のスキー界の復興に尽くした。1952年の[[オスロオリンピック]]では、スキーチームの監督をつとめた。1954年に[[小島三郎]]の後任として、全日本スキー連盟の会長に就任。1958年の退任後は、同連盟顧問を長くつとめた。また、日本体育協会理事も歴任した。
1911年、郷里で[[テオドール・エードラー・フォン・レルヒ|レルヒ]]少佐の講習会を見学して以来、[[スキー]]に親しむようになる。旧制[[新潟県立高田高等学校|高田中学校]]を経て、1923年[[早稲田大学]][[商学部]]卒。中学・大学を通じ[[クロスカントリースキー]]の選手として活躍し、1923年の第1回[[全日本スキー選手権大会]]にも出場している。大学卒業後、[[富士銀行|安田銀行]](現・[[みずほコーポレート銀行]])に入行し、1937年まで勤務。この間、1923年に[[大日本体育協会]]のスキー部員となり、さらに1925年に[[全日本スキー連盟]]が設立されると常務委員となる。その後庶務委員、専務理事を経て、[[第世界大戦]]直後の1946年に副会長となり、日本のスキー界の復興に尽くした。1952年の[[オスロオリンピック]]では、スキーチームの監督をつとめた。1954年に[[小島三郎]]の後任として、全日本スキー連盟の会長に就任。1958年の退任後は、同連盟顧問を長くつとめた。また、日本体育協会理事も歴任した。


日本スキー史の生き字引存在であり、「日本スキー発達史」などの著書もある。
日本スキー史の生き字引存在であり、「日本スキー発達史」などの著書もある。
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2013年9月17日 (火) 10:34時点における版

小川 勝次(おがわ かつじ、1899年(明治32年)4月16日 - 1988年(昭和63年)9月7日)は、新潟県高田市(現・上越市)出身のスキー選手・指導者。第3代全日本スキー連盟会長。

来歴

1911年、郷里でレルヒ少佐の講習会を見学して以来、スキーに親しむようになる。旧制高田中学校を経て、1923年早稲田大学商学部卒。中学・大学を通じクロスカントリースキーの選手として活躍し、1923年の第1回全日本スキー選手権大会にも出場している。大学卒業後、安田銀行(現・みずほコーポレート銀行)に入行し、1937年まで勤務。この間、1923年に大日本体育協会のスキー部員となり、さらに1925年に全日本スキー連盟が設立されると常務委員となる。その後庶務委員、専務理事を経て、第二次世界大戦直後の1946年に副会長となり、日本のスキー界の復興に尽くした。1952年のオスロオリンピックでは、スキーチームの監督をつとめた。1954年に小島三郎の後任として、全日本スキー連盟の会長に就任。1958年の退任後は、同連盟顧問を長くつとめた。また、日本体育協会理事も歴任した。

日本スキー史の生き字引存在であり、「日本スキー発達史」などの著書もある。

著書

  • 日本スキー発達史(1956年)
  • 高松宮殿下のスキー随行記(1975年)

参考文献

  • 小川勝次「日本スキー発達史」朋文堂、1956年
  • 菅原悦子「歴史ポケットスポーツ新聞冬季オリンピック」大空出版、2009年