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2013年9月17日 (火) 06:03時点における版
本堂 茂親(ほんどう しげちか、天正13年(1585年) - 正保2年5月2日(1645年7月3日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将・旗本。常陸国志筑初代領主。伊勢守。子に本堂栄親、本堂親澄、本堂保親ら。
来歴
1585年、出羽仙北郡本堂城主本堂忠親の嫡男として生まれる。1590年の小田原征伐で、父忠親はいち早く小田原の豊臣秀吉のもとに参陣し、戦後は8983石余を領する小名となった。のち、家督を相続する。
1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康に与する。父忠親・茂親は在国し、最上義光の指揮下に入って上杉景勝や小野寺領の一揆に対する征討戦に尽力している。1601年1月に伏見城勤番をつとめた後、同年6月、常陸新治郡志筑8500石に転封となる。
1604年に江戸城の堀普請、1609年に笠間城勤番をつとめる。1614年の大坂冬の陣に徳川方として従軍し、翌年の大坂夏の陣では二条城留守居役をつとめた。その後は伏見城御番や駿河久野城御番、陸奥岩城城勤番、大坂城御番、甲斐谷村城・甲府城勤番などを歴任する。
1645年4月、甲府城勤番に赴く途中に落馬。それが元で同年5月2日に死去した。享年61。墓所は、茨城県かすみがうら市の長興寺。法名は良英。
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