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中国でも宋の時代に入ると条坊制に基づいた都はあまり作られなくなり、朱雀大路も見られなくなった。 |
中国でも[[宋]]の時代に入ると条坊制に基づいた都はあまり作られなくなり、朱雀大路も見られなくなった。 |
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==関連項目== |
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2006年1月12日 (木) 03:04時点における版
朱雀大路は古代東アジアにおける首都内の官道名。 中国唐王朝時代の条坊制に基づいた長安に始まり、冊封制度により周辺諸国に波及。日本にも遣隋使、遣唐使を通じて条坊制が伝わり、最初の整備都市藤原京造営時に採用された。 しかし、当時の天武天皇は朱雀大路の役割を理解せず、2,3㍍ほどの小路に造ってしまった。そのため人の行き来が窮屈になり、その上天皇への閲兵式、凱旋行進が出来ない状態となった。
後の平城京、平安京はこうした欠陥をなくし、数十メートル単位の大路に造営。都を南北に走り、首都正門羅城門に始まり、大内裏正門朱雀門に終わる。
しかし律令制の崩壊、天皇政治の没落に伴い次第に市街地の整備もされなくなり、都の中心も東へ移動し既に朱雀大路は中央通りとしての役割を果たさなくなった。
大宰府においてもその存在が確認されており、坊条制の存在とともに藤原京より古いとの説(九州王朝説等)もある。
中国でも宋の時代に入ると条坊制に基づいた都はあまり作られなくなり、朱雀大路も見られなくなった。