「霜多正次」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
 
m編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{文学}}
{{文学}}
'''霜多正次'''(しもた せいじ、1913年9月5日-2003年4月16日)は、日本の[[小説家]]である。[[沖縄県]]国頭郡[[今帰仁村]]に生まれた。[[沖縄県立首里高等学校|沖縄県立第一中学校]]から旧制[[五高]]に進学。同級の[[梅崎春生]]と親交を結び、文学の道をめざす。[[東京帝国大学]]英文科卒業後、1940年に応召し、各地を転戦したあと[[ブーゲンビル島]]に配属される。日本の敗色が濃厚となった1945年5月、オーストラリア軍に投降し、捕虜となる。
'''霜多正次'''(しもた せいじ、1913年9月5日-2003年4月16日)は、日本の[[小説家]]である。[[沖縄県]]国頭郡[[今帰仁村]]に生まれた。[[沖縄県立首里高等学校|沖縄県立第一中学校]]から[[第五高等学校|旧制五高]]に進学。同級の[[梅崎春生]]と親交を結び、文学の道をめざす。[[東京帝国大学]]英文科卒業後、1940年に応召し、各地を転戦したあと[[ブーゲンビル島]]に配属される。日本の敗色が濃厚となった1945年5月、オーストラリア軍に投降し、捕虜となる。


 復員後、沖縄には戻らず、東京で文学をめざし、[[新日本文学会]]の事務局に勤務しながら小説を書く。1950年、雑誌『新日本文学』に「木山一等兵と宣教師」を発表、作家として認められるようになる。このころから、[[西野辰吉]]・[[窪田精]]・[[金達寿]]たちと交流を深めていく。1953年、初めて沖縄に帰郷し、米軍占領の実態を見聞し、沖縄を直接の題材にした作品を発表し始める。1956年から『新日本文学』に連載した長編『沖縄島』で[[毎日出版文化賞]]を受賞する。
 復員後、沖縄には戻らず、東京で文学をめざし、[[新日本文学会]]の事務局に勤務しながら小説を書く。1950年、雑誌『新日本文学』に「木山一等兵と宣教師」を発表、作家として認められるようになる。このころから、[[西野辰吉]]・[[窪田精]]・[[金達寿]]たちと交流を深めていく。1953年、初めて沖縄に帰郷し、米軍占領の実態を見聞し、沖縄を直接の題材にした作品を発表し始める。1956年から『新日本文学』に連載した長編『沖縄島』で[[毎日出版文化賞]]を受賞する。

2006年1月4日 (水) 14:50時点における版

霜多正次(しもた せいじ、1913年9月5日-2003年4月16日)は、日本の小説家である。沖縄県国頭郡今帰仁村に生まれた。沖縄県立第一中学校から旧制五高に進学。同級の梅崎春生と親交を結び、文学の道をめざす。東京帝国大学英文科卒業後、1940年に応召し、各地を転戦したあとブーゲンビル島に配属される。日本の敗色が濃厚となった1945年5月、オーストラリア軍に投降し、捕虜となる。

 復員後、沖縄には戻らず、東京で文学をめざし、新日本文学会の事務局に勤務しながら小説を書く。1950年、雑誌『新日本文学』に「木山一等兵と宣教師」を発表、作家として認められるようになる。このころから、西野辰吉窪田精金達寿たちと交流を深めていく。1953年、初めて沖縄に帰郷し、米軍占領の実態を見聞し、沖縄を直接の題材にした作品を発表し始める。1956年から『新日本文学』に連載した長編『沖縄島』で毎日出版文化賞を受賞する。