「樋口基康」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
temp
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2011年11月11日 (金) 08:43 (UTC)}}
'''樋口 基康'''(ひぐち もとやす、[[宝永]]3年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]([[1706年]][[8月18日]]) - [[安永]]9年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]([[1780年]][[7月28日]]))は[[江戸時代]]中期の[[公卿]]。[[藤原北家]][[藤原長良|長良]]流[[樋口家]]の当主。[[樋口康熙]]の次男。母は家女房。正室は[[高松藩]]3代藩主[[松平頼豊]]の娘。子女は[[樋口冬康]]、[[二条治孝]]側室など。号は観無量寿院。[[正二位]]。
'''樋口 基康'''(ひぐち もとやす、[[宝永]]3年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]([[1706年]][[8月18日]]) - [[安永]]9年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]([[1780年]][[7月28日]]))は[[江戸時代]]中期の[[公卿]]。[[藤原北家]][[藤原長良|長良]]流[[樋口家]]の当主。[[樋口康熙]]の次男。母は家女房。正室は[[高松藩]]3代藩主[[松平頼豊]]の娘。子女は[[樋口冬康]]、[[二条治孝]]側室など。号は観無量寿院。[[正二位]]。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
宝永3年(1706年)に樋口康熙の子として生まれる。宝永2年([[1705年]])に異母兄[[樋口康輝|康輝]]が夭折したため、その後生まれた庶子の基康が樋口家を継いだ。[[宝暦]]10年([[1760年]])に[[参議]]、安永4年([[1778年]])に[[権大納言]]となった。安永9年(1780年)死去。享年75。
宝永3年(1706年)に樋口康熙の子として生まれる。宝永2年([[1705年]])に異母兄[[樋口康輝|康輝]]が夭折したため、その後生まれた庶子の基康が樋口家を継いだ。[[宝暦]]10年([[1760年]])に[[参議]]、安永4年([[1778年]])に[[権大納言]]となった。安永9年(1780年)死去。享年75。

==参考文献==
*『日本史諸家系図人名辞典』(小和田哲男、[[講談社]]、[[2003年]])


{{DEFAULTSORT:ひくち もとやす}}
{{DEFAULTSORT:ひくち もとやす}}

2011年11月13日 (日) 11:38時点における版

樋口 基康(ひぐち もとやす、宝永3年7月11日1706年8月18日) - 安永9年6月27日1780年7月28日))は江戸時代中期の公卿藤原北家長良樋口家の当主。樋口康熙の次男。母は家女房。正室は高松藩3代藩主松平頼豊の娘。子女は樋口冬康二条治孝側室など。号は観無量寿院。正二位

略歴

宝永3年(1706年)に樋口康熙の子として生まれる。宝永2年(1705年)に異母兄康輝が夭折したため、その後生まれた庶子の基康が樋口家を継いだ。宝暦10年(1760年)に参議、安永4年(1778年)に権大納言となった。安永9年(1780年)死去。享年75。

参考文献

  • 『日本史諸家系図人名辞典』(小和田哲男、講談社2003年