「ティベリウス・クラウディウス・ネロ」の版間の差分
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ティベリウス・ネロの死後、アウグストゥスの継子となったティベリウスとドルススは[[ユリウス・クラウディウス朝]]の一員となり、ティベリウスは第2代の[[ローマ皇帝]]ともなった。 |
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ドルススの息子である[[ゲルマニクス]]や第4代皇帝[[クラウディウス]]は孫にあたり、ゲルマニクスの子供である第3代皇帝[[カリグラ]]や[[小アグリッピナ]]は曾孫にあたる。小アグリッピナの息子である第5代皇帝[[ネロ]]は玄孫にあたる。 |
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== 生涯 == |
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名門クラウディウス氏族に属するティベリウス・ネロは、その経歴を[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]付きの[[クァエストル]]として始める。[[ポンペイウス]]との |
名門クラウディウス氏族に属するティベリウス・ネロは、その経歴を[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]付きの[[クァエストル]]として始める。[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]では、[[グナエウス・ポンペイウス]]ら元老院派との[[ファルサルスの戦い|戦い]]に勝利後、カエサル派と[[プトレマイオス朝]]との[[ナイルの戦い (紀元前47年)|戦闘]]では艦隊を指揮し、勝利に貢献した。このときの貢献のため、プブリウス・スキピオの後任の[[ポンティフェクス|神祇官(ポンティフェクス)]]に任命され、[[ガリア]]にナルボやアレラテなどの[[植民市]]建設の指導のため派遣された。 |
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このような経歴からカエサル派としてみられるが、[[紀元前44年]][[3月15日]]にカエサルが暗殺されると共和派に同調を見せる。[[元老院 (ローマ)|元老院]]において[[マルクス・ユニウス・ブル |
このような経歴からカエサル派としてみられるが、[[紀元前44年]][[3月15日]]にカエサルが暗殺されると共和派に同調を見せる。[[元老院 (ローマ)|元老院]]において[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]]、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス]]ら暗殺犯を赦免する決議の出された時には、[[僭主]]殺しの英雄として褒賞を与えるべきだとの提案までしている。 |
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その後[[共和政ローマ|ローマ]]はブルトゥス、カッシウスらの勢力と[[マルクス・アントニウス]]、オクタウィアヌス(のちの[[アウグストゥス]])、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]]の[[第二回三頭政治|三頭官]](国家再建三人委員会)との間で[[フィリッピの戦い]]が行われた。この間ティベリウス・ネロはアントニウスに接近したようで、この後三頭官の間で確執が生じるとオクタウィアヌスに対立して行動していく。 |
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[[紀元前41年]]に[[プラエトル|法務官]]に就任する。この年の冬にマルクス・アントニウスの弟でこの年の執政官[[ルキウス・アントニウス]]とマルクスの妻[[フルウィア]]がオクタウィアヌスに反抗してペルシア(現在の[[ペルージャ]])で蜂起すると、ティベリウス・ネロもこれに加わった。ペルシアでの敗北後ティベリウス・ネロは妻子を連れてプラエネステ、ネアポリス(現[[ナポリ]])と逃走し、この間にも失敗に終わったものの、解放の条件で奴隷の軍団を組織しようとするなどしている。 |
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その後、同じくオクタウィアヌスと対立していたポンペイウスの息子[[セクストゥス・ポンペイウス]]のいる[[シチリア島]]へ逃走したが、ポンペイウスから軍の指揮権を与えられなかったため、マルクス・アントニウスのいる[[アカイア]]へと渡った。 |
その後、同じくオクタウィアヌスと対立していたポンペイウスの息子[[セクストゥス・ポンペイウス]]のいる[[シチリア島]]へ逃走したが、ポンペイウスから軍の指揮権を与えられなかったため、マルクス・アントニウスのいる[[アカイア]]へと渡った。 |
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ティベリウス・ネロは長男ティベリウスと生まれたばかりの次男ドルススを養育したが、紀元前33年に死亡した。このとき[[フォルム・ロマヌム]]での追悼演説は長男ティベリウスが務めた。ティベリウス・ネロの没後、ティベリウスとドルススはリウィアに引き取られ、アウグストゥスの継子として成長していくことになる。 |
ティベリウス・ネロは長男ティベリウスと生まれたばかりの次男ドルススを養育したが、紀元前33年に死亡した。このとき[[フォルム・ロマヌム]]での追悼演説は長男ティベリウスが務めた。ティベリウス・ネロの没後、ティベリウスとドルススはリウィアに引き取られ、アウグストゥスの継子として成長していくことになる。 |
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2011年4月27日 (水) 03:37時点における版
ティベリウス・クラウディウス・ネロ(ラテン語: Tiberius Claudius Nero、 紀元前85年頃 - 紀元前33年頃)は、ローマ帝国第2代皇帝ティベリウスの実父で、アウグストゥスの妻リウィアの最初の夫。
系譜
ティベリウス・ネロは名門リウィウス氏族に属するリウィア・ドルシッラと結婚した。リウィアの父マルクス・リウィウス・ドルスス・クラウディアヌスはクラウディウス氏族出身者であるため、同族同士の結婚でもあった。この結婚で紀元前42年に自らと同名の長男ティベリウス・クラウディウス・ネロを、紀元前38年に次男ネロ・クラウディウス・ドルススを得ている。ドルススは妊娠中に離婚したリウィアがアウグストゥスと再婚した後に生まれている。
ティベリウス・ネロの死後、アウグストゥスの継子となったティベリウスとドルススはユリウス・クラウディウス朝の一員となり、ティベリウスは第2代のローマ皇帝ともなった。
ドルススの息子であるゲルマニクスや第4代皇帝クラウディウスは孫にあたり、ゲルマニクスの子供である第3代皇帝カリグラや小アグリッピナは曾孫にあたる。小アグリッピナの息子である第5代皇帝ネロは玄孫にあたる。
生涯
名門クラウディウス氏族に属するティベリウス・ネロは、その経歴をガイウス・ユリウス・カエサル付きのクァエストルとして始める。ローマ内戦では、グナエウス・ポンペイウスら元老院派との戦いに勝利後、カエサル派とプトレマイオス朝との戦闘では艦隊を指揮し、勝利に貢献した。このときの貢献のため、プブリウス・スキピオの後任の神祇官(ポンティフェクス)に任命され、ガリアにナルボやアレラテなどの植民市建設の指導のため派遣された。
このような経歴からカエサル派としてみられるが、紀元前44年3月15日にカエサルが暗殺されると共和派に同調を見せる。元老院においてマルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスら暗殺犯を赦免する決議の出された時には、僭主殺しの英雄として褒賞を与えるべきだとの提案までしている。
その後ローマはブルトゥス、カッシウスらの勢力とマルクス・アントニウス、オクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)、マルクス・アエミリウス・レピドゥスの三頭官(国家再建三人委員会)との間でフィリッピの戦いが行われた。この間ティベリウス・ネロはアントニウスに接近したようで、この後三頭官の間で確執が生じるとオクタウィアヌスに対立して行動していく。
紀元前41年に法務官に就任する。この年の冬にマルクス・アントニウスの弟でこの年の執政官ルキウス・アントニウスとマルクスの妻フルウィアがオクタウィアヌスに反抗してペルシア(現在のペルージャ)で蜂起すると、ティベリウス・ネロもこれに加わった。ペルシアでの敗北後ティベリウス・ネロは妻子を連れてプラエネステ、ネアポリス(現ナポリ)と逃走し、この間にも失敗に終わったものの、解放の条件で奴隷の軍団を組織しようとするなどしている。
その後、同じくオクタウィアヌスと対立していたポンペイウスの息子セクストゥス・ポンペイウスのいるシチリア島へ逃走したが、ポンペイウスから軍の指揮権を与えられなかったため、マルクス・アントニウスのいるアカイアへと渡った。
この年紀元前40年にアントニウスとオクタウィアヌスとの間では和平が締結され、翌年ティベリウス・ネロは家族と共にローマに帰還する。このローマでオクタウィアヌスは初めて出会ったリウィアに惹かれ、結婚を強く望むようになる。ティベリウス・ネロはこの要望を受け入れ、身重の妻と離婚した。紀元前38年1月17日にリウィアとオクタウィアヌスは結婚し、その後リウィアは次男ドルススを出産した。
ティベリウス・ネロは長男ティベリウスと生まれたばかりの次男ドルススを養育したが、紀元前33年に死亡した。このときフォルム・ロマヌムでの追悼演説は長男ティベリウスが務めた。ティベリウス・ネロの没後、ティベリウスとドルススはリウィアに引き取られ、アウグストゥスの継子として成長していくことになる。