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== 名和系宇土氏 ==
== 名和系宇土氏 ==
宇土為光の娘婿であった[[名和顕忠]]は、為光死後に宇土城を占領し居城とした。そして顕忠が宇土氏を称したとも、そ子孫の[[名和行興]]が宇土行興と名乗ったともされ、宇土氏は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期まで存続した。
宇土為光の娘婿であった[[名和顕忠]]は、為光死後に宇土城を占領し居城とした(宇土初代)以後対外的には「宇土殿」と称される宇土氏をするは宇土3代の[[名和行興]]頃まで下るようである。宇土氏は以後4代行直を経て、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期、九州征伐に際して5代宇土顕孝は豊臣秀吉に降伏し、自身は大坂へ赴いて、弟の宇土顕輝を宇土城代とした。その顕輝は、1587年(天正15年)に生じた肥後国衆一揆の混乱に乗じ、翌1588年(天正16年)4月に宇土城で挙兵するも即座に鎮圧され、城主としての宇土氏はここに滅びる


==系譜==
==系譜==

2010年7月20日 (火) 15:52時点における版

宇土氏(うとし、うとうじ)は日本の氏族。肥後国宇土郡本貫として勢力を張った。

紀姓宇土氏

初期の宇土氏は紀氏の流れを汲んでいたとされ、平安時代から鎌倉時代にかけて勢力を拡大したというが、文献上宇土氏が紀姓を名乗るのは建久6年3月日付の「甲佐所領文書案文」が初例となる。平安時代にはむしろ、旧富合町に拠点を置いていた在郷の肥君系木原氏の勢力下にあったようである。


菊池系宇土氏

紀姓宇土氏が衰退した後の鎌倉時代の末期、肥後国守護であった菊池氏の一族から、地名を取って宇土と名乗る一族が現れた。また名和氏の一族ともされる宇土忠豊の養子に菊池持朝の子である為光が入り、宇土為光と名乗った。この為光は野心に溢れる人物で、1484年に肥後国人の相良為続と結んで甥の菊池重朝を討とうとするが、逆に攻撃され宇土城を棄てて逃亡した。後に為光は宇土城に復帰し、隈府城を攻略。1501年には菊池武運(後に能運に改名)を玉祥寺原の戦いで破り、肥後守護職を簒奪し、宇土氏の最盛期を作り上げた。しかし、能運の逆襲に遭って敗北、筑後国に逃走したが現地で捕獲され、子や孫とともに処刑され、宇土氏は滅亡した。

名和系宇土氏

宇土為光の娘婿であった名和顕忠は、為光死後に宇土城を占領し居城とした(宇土初代)。以後対外的には「宇土殿」と称されるが、宇土氏を自称するのは宇土3代の名和行興頃まで下るようである。宇土氏は以後4代行直を経て、戦国時代末期、九州征伐に際して5代宇土顕孝は豊臣秀吉に降伏し、自身は大坂へ赴いて、弟の宇土顕輝を宇土城代とした。その顕輝は、1587年(天正15年)に生じた肥後国衆一揆の混乱に乗じ、翌1588年(天正16年)4月に宇土城で挙兵するも即座に鎮圧され、城主としての宇土氏はここに滅びる。

系譜

実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
宇土忠豊
 
 
 
為光[1]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重光
 
名和顕忠
 
 
 
 
 
 
 
宮満丸武顕
 
 
 
宇土行興
 
 
 
行憲
  1. ^ 菊池持朝の子。

関連項目