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毎週月-金(後に月-木)の22:00-24:00に放送。ただし、ナイター中継が伸びた場合は
放送時間が短縮された
放送時間が短縮された(1990年度までは試合終了まで放送の為、はいぱぁの放送自体が無くなる
場合もあった。1991年以降は最大22:30までとなり、最低1時間の枠は確保されるようになった)。
[[1996年]]3月に終了。後番組は[[ハイヤングKYOTO (第二期)]]。
[[1996年]]3月に終了。後番組は[[ハイヤングKYOTO (第二期)]]。


KBS京都ラジオの深夜放送は、好評を博した[[ハイヤングKYOTO (第一期)]]終了後、
KBS京都ラジオの深夜放送は、好評を博した[[ハイヤングKYOTO (第一期)]]終了後、
衰退期を迎えていた。
[[フリーキャンパスKYOTO]]、ミュージックステーションで新機軸を打ち出すも、
[[フリーキャンパスKYOTO]]、ミュージックステーションで新機軸を打ち出すも、
リスナーに受け入れられず、聴取率的にも苦戦を強いられていた。
リスナーに受け入れられず、聴取率的にも苦戦を強いられていた。


そこで、はいぱぁナイトでは、それまでのKBS京都本社からの生放送を改め、
そこで、はいぱぁナイトでは、それまでのKBS京都本社からの生放送を改め、
東京・原宿スタジオからの放送となった。
東京・原宿スタジオ(実は外注の番組制作会社スタジオ)からの放送となった。
これにより、[[パーソナリティ]]の人材に選択肢が広がり、また
これにより、[[パーソナリティ]]の人材に選択肢が広がり、更には東京の
ゲストが呼びやすくなるなどした。<br>
ゲストが呼びくなる等の利点があった。<br>
東京からの放送には、近畿圏のリスナーとの距離感があるというデメリットがあったが、
東京の放送には、近畿圏のリスナーとの距離感があるというデメリットがあったが、
リスナー参加型のコーナーに力を入れる、頻繁に京都での公開イベントを行うなどして、
リスナー参加型のコーナーに力を入れる、頻繁に京都での公開イベントを行うなどして、
極力距離感を埋める努力を行った。<br>
極力距離感を埋める努力を行った。<br>
さらに、パーソナリティに[[冨永みーな]]や[[日高のり子]]を迎えて[[アニメファン]]層をリスナーに取り込む事に成功、[[アニラジ]]ブームの先駆けの一つとなった。
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取り込む事に成功、[[アニラジ]]ブームの先駆けの一つとなった。それ以外のパーソナリティー陣も
各曜日毎の強い個性を打ち出す事に成功し、これによりKBS京都の深夜ラジオはリスナーからの支持を
取り戻した。


この頃既AMラジオは若者文化としては時代遅れになっていたが、はいぱぁナイトは言わば
これにより、長らく低迷していたKBS深夜放送は、リスナーからの支持を取り戻した。
最後の光芒となったのである。22:00台とは思えないほどのほのぼの感が全パーソナリティーに
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通暁し、バスツアーや各種ゲーム大会まで企画された。
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しかし、KBS京都が[[イトマン事件]]に端を発する経営危機に直面
しかし、KBS京都が[[イトマン事件]]に端を発する経営危機に直面し、1994年9月に会社更生法の
はいぱぁナイトは東京からの放送でトがかかるとして打ち切られ、
適用を受ける事になったのに伴い、はいぱぁナイトは東京からの放送でスタジオ使用料や中継回線
等のコストがかかるとして翌年春の改編で金曜枠が打ち切られ、更に1996年春改編をもって
ハイヤングKYOTO (第二期)に取って代わられた。
ハイヤングKYOTO (第二期)に取って代わられた。


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*[[杉原徹]](火曜日)
*[[杉原徹]](火曜日)
*[[田原音彦]](水曜日)
*[[田原音彦]](水曜日)
*[[沢田聖子]](木曜日)
*[[沢田聖子]](木曜日)([[坪倉唯子]]降板後に再度復帰
*[[坪倉唯子]](木曜日)([[シャインズ]]の次)
*[[日高のり子]](金曜日)
*[[日高のり子]](金曜日)
*[[山寺宏一]](月曜日)([[冨永みーな]]の次)
*[[山寺宏一]](月曜日)([[冨永みーな]]の次)

2005年10月23日 (日) 09:13時点における版

はいぱぁナイトは、KBS京都で放送された、若者向け深夜ラジオ番組である。

1989年4月にミュージックステーションの後番組として開始。 毎週月-金(後に月-木)の22:00-24:00に放送。ただし、ナイター中継が伸びた場合は 放送時間が短縮された(1990年度までは試合終了まで放送の為、はいぱぁの放送自体が無くなる 場合もあった。1991年以降は最大22:30までとなり、最低1時間の枠は確保されるようになった)。 1996年3月に終了。後番組はハイヤングKYOTO (第二期)

KBS京都ラジオの深夜放送は、好評を博したハイヤングKYOTO (第一期)終了後、 フリーキャンパスKYOTO、ミュージックステーションで新機軸を打ち出すも、 リスナーに受け入れられず、聴取率的にも苦戦を強いられていた。

そこで、はいぱぁナイトでは、それまでのKBS京都本社からの生放送を改め、 東京・原宿スタジオ(実は外注の番組制作会社スタジオ)からの放送となった。 これにより、パーソナリティの人材に選択肢が広がり、更には東京の ゲストが呼び易くなる等の利点があった。
東京発の放送には、近畿圏のリスナーとの距離感があるというデメリットがあったが、 リスナー参加型のコーナーに力を入れる、頻繁に京都での公開イベントを行うなどして、 極力距離感を埋める努力を行った。
さらに、パーソナリティに冨永みーな日高のり子を迎えてアニメファン層をリスナーに 取り込む事に成功、アニラジブームの先駆けの一つとなった。それ以外のパーソナリティー陣も 各曜日毎の強い個性を打ち出す事に成功し、これによりKBS京都の深夜ラジオはリスナーからの支持を 取り戻した。

この頃既にAMラジオは若者文化としては時代遅れになっていたが、はいぱぁナイトは言わば、 最後の光芒となったのである。22:00台とは思えないほどのほのぼの感が全パーソナリティーに 通暁し、バスツアーや各種ゲーム大会まで企画された。

しかし、KBS京都がイトマン事件に端を発する経営危機に直面し、1994年9月に会社更生法の 適用を受ける事になったのに伴い、はいぱぁナイトは東京からの放送でスタジオ使用料や中継回線 等のコストがかかるとして翌年春の改編で金曜枠が打ち切られ、更に1996年春改編をもって ハイヤングKYOTO (第二期)に取って代わられた。

主な担当パーソナリティ