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'''畠山 政国'''(はたけやま まさくに、[[文亀]]2年([[1502年]]) - [[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]]))は[[河内国]]の[[守護大名]]。[[畠山尚順]]の子で、[[畠山稙長]]・[[畠山長経|長経]]の弟。[[畠山高政]]・[[畠山政尚|政尚]]・[[畠山昭高|昭高]]の父。
'''畠山 政国'''(はたけやま まさくに、[[文亀]]2年([[1502年]]) - [[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]])?)は[[河内国]]の[[守護大名]]。[[畠山尚順]]の子で、[[畠山稙長]]・[[畠山長経|長経]]の弟。[[畠山高政]]・[[畠山政尚|政尚]]・[[畠山昭高|昭高]]の父。


稙長が[[木沢長政]]によって追放され、続いてもう一人の兄である長経が暗殺されると、当主として擁立された。しかし長政の傀儡に過ぎなかった。[[1542年]]、木沢長政が戦死すると後ろ盾を失い、重臣によって[[紀伊国]]に追放され、出家した。[[1545年]]に当主として復帰した稙長が没すると、家督を継いで復帰している。
稙長が[[木沢長政]]によって追放され、続いてもう一人の兄である長経が暗殺されると、当主として擁立された。しかし長政の傀儡に過ぎなかった。[[1542年]]、木沢長政が戦死すると後ろ盾を失い、重臣によって[[紀伊国]]に追放され、出家した。[[1545年]]に当主として復帰した稙長が没すると、家督を継いで復帰している。

天文19年に没したといわれているが、その後も活動していたとする記録もあり、天文年間末期頃の死没とする見方もある。


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2005年10月21日 (金) 12:01時点における版

畠山 政国(はたけやま まさくに、文亀2年(1502年) - 天文19年(1550年)?)は河内国守護大名畠山尚順の子で、畠山稙長長経の弟。畠山高政政尚昭高の父。

稙長が木沢長政によって追放され、続いてもう一人の兄である長経が暗殺されると、当主として擁立された。しかし長政の傀儡に過ぎなかった。1542年、木沢長政が戦死すると後ろ盾を失い、重臣によって紀伊国に追放され、出家した。1545年に当主として復帰した稙長が没すると、家督を継いで復帰している。

天文19年に没したといわれているが、その後も活動していたとする記録もあり、天文年間末期頃の死没とする見方もある。