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[[大日本帝国憲法]]下の日本では、「[[国民皆兵]]」として兵役の義務に服さねばならぬことになっていた。その為、子どもたちへも戦時の基礎教育が広く行われた。特に、[[張作霖爆殺事件]]以後の[[軍国主義]]の時代においては、小学生は「少国民」と呼ばれ、[[小学校]](第二次大戦中の[[国民学校]])でも基礎的な[[軍事訓練]]を受けるほか、前線[[兵士]]への憧憬を誘ったり、「国のために死ぬ」姿勢を賛美するなど、戦争への親近感を抱かせる[[教育]]が行われた。[[教科書]]や読み物には[[軍艦]]や[[戦闘機]]や[[戦車]](タンク)が登場していた。
[[大日本帝国憲法]]下の日本では、「[[国民皆兵]]」として兵役の義務に服さねばならぬことになっていた。その為、子どもたちへも戦時の基礎教育が広く行われた。特に、[[張作霖爆殺事件]]以後の[[軍国主義]]の時代においては、小学生は「少国民」と呼ばれ、[[小学校]](第二次大戦中の[[国民学校]])でも基礎的な[[軍事訓練]]を受けるほか、前線[[兵士]]への憧憬を誘ったり、「国のために死ぬ」姿勢を賛美するなど、戦争への親近感を抱かせる[[教育]]が行われた。[[教科書]]や読み物には[[軍艦]]や[[戦闘機]]や[[戦車]](タンク)が登場していた。


[[1920年代]]生まれや[[1930年代]]生まれの人々が、「少国民」と呼ばれたことになる。この語にこだわった著作をいまもつづける作家・[[山中恒]](1931 - )もそのひとりである。
[[1920年代]]生まれ(“[[戦中派]]”)や[[1930年代]]生まれ(“[[焼け跡世代]]”)世代が、「少国民」と呼ばれたことになる。この語にこだわった著作をいまもつづける作家・[[山中恒]]([[1931]]生)もその一人である。


[[1942年]](昭和17年)2月、文化・教育・産業等さまざまな国民生活に対し、「戦時統制」が敷かれたが、いわゆる「[[小学館の学習雑誌]]」に敷かれた統制が、『国民一年生』 - 『国民六年生』(現在の『小学一年生』 - 『小学六年生』)を、低学年向けの『[[良い子の友]]』と高学年向けの『[[少国民の友]]』に統合する、というものであった<ref>「[[小学館の学習雑誌]]」および「[[少国民の友]]」の項の記述を参照。</ref>。
[[1942年]](昭和17年)2月、文化・教育・産業等さまざまな国民生活に対し、「戦時統制」が敷かれたが、いわゆる「[[小学館の学習雑誌]]」に敷かれた統制が、『国民一年生』 - 『国民六年生』(現在の『小学一年生』 - 『小学六年生』)を、低学年向けの『[[良い子の友]]』と高学年向けの『[[少国民の友]]』に統合する、というものであった<ref>「[[小学館の学習雑誌]]」および「[[少国民の友]]」の項の記述を参照。</ref>。
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*[[国民学校]]
*[[国民学校]]
*[[戦中派]]
*[[戦中派]]
*[[昭和一桁]]
*[[焼け跡世代]]
*[[焼け跡世代]]
*[[少國民の友]]
*[[少國民の友]]
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2009年11月29日 (日) 13:18時点における版

少国民(しょうこくみん)は、太平洋戦争(1941年 – 1945年)体制下の日本において、銃後に位置する子どもたちを指した語である。これは、ドイツのヒトラーユーゲントで用いられた「Jungvolk」の訳語である[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。現在では死語である。

概要

大日本帝国憲法下の日本では、「国民皆兵」として兵役の義務に服さねばならぬことになっていた。その為、子どもたちへも戦時の基礎教育が広く行われた。特に、張作霖爆殺事件以後の軍国主義の時代においては、小学生は「少国民」と呼ばれ、小学校(第二次大戦中の国民学校)でも基礎的な軍事訓練を受けるほか、前線兵士への憧憬を誘ったり、「国のために死ぬ」姿勢を賛美するなど、戦争への親近感を抱かせる教育が行われた。教科書や読み物には軍艦戦闘機戦車(タンク)が登場していた。

1920年代生まれ(“戦中派”)や1930年代生まれ(“焼け跡世代”)の世代が、「少国民」と呼ばれたことになる。この語にこだわった著作をいまもつづける作家・山中恒1931年生)もその一人である。

1942年(昭和17年)2月、文化・教育・産業等さまざまな国民生活に対し、「戦時統制」が敷かれたが、いわゆる「小学館の学習雑誌」に敷かれた統制が、『国民一年生』 - 『国民六年生』(現在の『小学一年生』 - 『小学六年生』)を、低学年向けの『良い子の友』と高学年向けの『少国民の友』に統合する、というものであった[1]

日本以外では、軍政時代の大韓民国の国民学校(現在の初等校に相当する)用教科書も、似たような軍国主義的な内容だったと言われている[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

参考書籍

  • 山中恒ボクラ少国民』、辺境社、1974年 / 講談社文庫、1989年 ISBN 406184511X
  • 山中恒『御民ワレ - ボクラ少国民第二部』、辺境社、1975年
  • 山中恒『撃チテシ止マム - ボクラ少国民第三部』、辺境社、1977年
  • 山中恒『欲シガリマセン勝ツマデハ - ボクラ少国民第四部』、辺境社、1979年
  • 山中恒『勝利ノ日マデ - ボクラ少国民第五部』、辺境社、1980年
  • 山中恒『少国民体験を探る - ボクラ少国民補巻』、辺境社、1981年
  • 山中恒『ボクラ少国民と戦争応援歌』、音楽之友社、1985年 ISBN 4276212820
  • 山中恒・山中典子『間違いだらけの少年H - 銃後生活史の研究と手引き』、辺境社、1999年 ISBN 4326950285

関連項目

  1. ^ 小学館の学習雑誌」および「少国民の友」の項の記述を参照。