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2009年11月6日 (金) 22:27時点における版

長尾 憲景(ながお のりかげ、永正8年(1511年) - 天正11年4月2日1583年5月23日))は戦国時代武将山内上杉家家臣。通称は孫四郎、左衛門尉。号は市井斎。白井長尾家当主。上野白井城主。子に長尾憲春、長尾輝景長尾景広

総社長尾顕忠(またはその庶流、高津長尾顕景)の子で、白井長尾景誠の養子となり、景誠の横死後に長野業正の斡旋で当主となる。初め景房を称して主君上杉憲政の偏諱を受け、憲景と改名した。永禄10年(1567年)、甲斐の武田信玄の上野侵攻で、白井の所領を失い、越後の上杉謙信の許へ逃れた。その後は謙信に従って各地を転戦したが、元亀3年(1572年)、真田幸隆に白井城を攻められ、八崎城に逃れた。

この際、次男輝景に家督を譲った。翌年、越相同盟が結ばれ、上野への諸将の影響力が薄まったために白井城に戻る。謙信死後は御館の乱上杉景虎に与したため、乱後は武田勝頼滝川一益後北条氏に仕えた。