「ガイウス・グラックス」の版間の差分
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父は[[ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル]]、母は[[コルネリア・アフリカナ]]([[スキピオ・アフリカヌス]]の娘)。[[グラックス兄弟]]の弟の方で、兄は[[ティベリウス・グラックス]]。兄ティベリウスが倒れた後、[[護民官]]となり、殺された。 |
父は[[ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル]]、母は[[コルネリア・アフリカナ]]([[スキピオ・アフリカヌス]]の娘)。[[グラックス兄弟]]の弟の方で、兄は[[ティベリウス・グラックス]]。兄ティベリウスが倒れた後、[[護民官]]となり、殺された。 |
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==経歴== |
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[[紀元前154年]]、ガイウスは生まれ、同年父が死去、母コルネリアによって育てられる。グラックス家は[[パトリキ]]の血統ではなかったが、裕福で政治家としても有望な家柄であった。少年期に兄[[ティベリウス・グラックス|ティベリウス]]が提示したセンプロニウス農地法案を提出、従兄弟[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ]]と対立しナシカの支持者に殺害されてしまう。兄の殺害によりグラックス家の遺産を相続する。そしてのちに分かることだが、ガイウスは兄の遺志も継ぐことになる。 |
[[紀元前154年]]、ガイウスは生まれ、同年父が死去、母コルネリアによって育てられる。グラックス家は[[パトリキ]]の血統ではなかったが、裕福で政治家としても有望な家柄であった。少年期に兄[[ティベリウス・グラックス|ティベリウス]]が提示したセンプロニウス農地法案を提出、従兄弟[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ]]と対立しナシカの支持者に殺害されてしまう。兄の殺害によりグラックス家の遺産を相続する。そしてのちに分かることだが、ガイウスは兄の遺志も継ぐことになる。 |
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===護民官に当選=== |
=== 護民官に当選 === |
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ガイウスは[[トリブヌス・ミリトゥム]]として[[ヌミディア]]に赴任したのが公的生活の始まりである。その後ローマに戻り、[[紀元前126年]]に[[クァエストル]]職に当選、つつがない数年を過ごす。そして[[紀元前123年]]に[[護民官]]に当選し、当然の事だが、保守派は再び弟ガイウス兄ティベリウスのような行動をとるのかと警戒した。しかしガイウスは兄の遺志は継いだが、同時の兄が犯した誤りを再び踏まないよう学んでいた。 |
ガイウスは[[トリブヌス・ミリトゥム]]として[[ヌミディア]]に赴任したのが公的生活の始まりである。その後ローマに戻り、[[紀元前126年]]に[[クァエストル]]職に当選、つつがない数年を過ごす。そして[[紀元前123年]]に[[護民官]]に当選し、当然の事だが、保守派は再び弟ガイウス兄ティベリウスのような行動をとるのかと警戒した。しかしガイウスは兄の遺志は継いだが、同時の兄が犯した誤りを再び踏まないよう学んでいた。 |
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構想としてガイウスは形骸化してしまったセンプロニウス農地法だけでなく、穀物の価格を統制する法案、市民の軍役年数に制限を加える法案も成立させようとしていた。また司法に関しても[[元老院]]の不正・横領を告発でき、また元老院議員たちが仲間内でかばいあうことを防ぐ法案も考えていた。彼の法案では身分の低い[[エクィテス]]の者でも法規の草案に携わることができるとした。彼はまたローマ市民権を他のイタリア内の同盟都市にも広げようとしていた。このすべてが元老院を反発させた。 |
構想としてガイウスは形骸化してしまったセンプロニウス農地法だけでなく、穀物の価格を統制する法案、市民の軍役年数に制限を加える法案も成立させようとしていた。また司法に関しても[[元老院]]の不正・横領を告発でき、また元老院議員たちが仲間内でかばいあうことを防ぐ法案も考えていた。彼の法案では身分の低い[[エクィテス]]の者でも法規の草案に携わることができるとした。彼はまたローマ市民権を他のイタリア内の同盟都市にも広げようとしていた。このすべてが元老院を反発させた。 |
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===護民官に再選=== |
=== 護民官に再選 === |
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[[紀元前122年]]、ガイウスは再び護民官選挙に出馬する。護民官の再選−護民官の官職は元老院入りの最初のキャリアに過ぎないと考えられていたので、通常では考えられないことであった。そして当選し、ローマの下層市民の圧倒的支持を受け、そして増大する元老院の反発を背景に改革に躍進していった。しかしながら成果は芳しくなく、保守的な[[執政官]]ルキウス・オピミウス([[:en:Lucius Opimius|en]])の前に彼らの法案は潰されてしまう。そして剛を煮やしたガイウス一派は過激な行動に出てしまい、そして元老院はガイウスおよびその支持者に対して「[[セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム]]」を可決した。奴隷の機転でガイウスは逃げおおせたが、敵対者に捕まりそうになると配下の奴隷に自分を殺すよう命令、ガイウスは殺され、その奴隷も自ら命を絶った。 |
[[紀元前122年]]、ガイウスは再び護民官選挙に出馬する。護民官の再選−護民官の官職は元老院入りの最初のキャリアに過ぎないと考えられていたので、通常では考えられないことであった。そして当選し、ローマの下層市民の圧倒的支持を受け、そして増大する元老院の反発を背景に改革に躍進していった。しかしながら成果は芳しくなく、保守的な[[執政官]]ルキウス・オピミウス([[:en:Lucius Opimius|en]])の前に彼らの法案は潰されてしまう。そして剛を煮やしたガイウス一派は過激な行動に出てしまい、そして元老院はガイウスおよびその支持者に対して「[[セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム]]」を可決した。奴隷の機転でガイウスは逃げおおせたが、敵対者に捕まりそうになると配下の奴隷に自分を殺すよう命令、ガイウスは殺され、その奴隷も自ら命を絶った。 |
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===死後=== |
=== 死後 === |
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ガイウスの死後も殺害は絶えなかった。彼の一派3,000人が殺された。[[プルタルコス]]によると、ガイウスの首が切り取られ、オピミウムの手の者によって持ち去られ、頭の重さと同等の金と交換してもらったという。 |
ガイウスの死後も殺害は絶えなかった。彼の一派3,000人が殺された。[[プルタルコス]]によると、ガイウスの首が切り取られ、オピミウムの手の者によって持ち去られ、頭の重さと同等の金と交換してもらったという。 |
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==関連項目== |
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*[[グラックス兄弟]] |
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2009年3月31日 (火) 08:58時点における版
ガイウス・センプロニウス・グラックス(Gaius Sempronius Gracchus , 紀元前154年 - 紀元前121年)とは、紀元前2世紀の共和政ローマの政治家。
父はティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル、母はコルネリア・アフリカナ(スキピオ・アフリカヌスの娘)。グラックス兄弟の弟の方で、兄はティベリウス・グラックス。兄ティベリウスが倒れた後、護民官となり、殺された。
経歴
紀元前154年、ガイウスは生まれ、同年父が死去、母コルネリアによって育てられる。グラックス家はパトリキの血統ではなかったが、裕福で政治家としても有望な家柄であった。少年期に兄ティベリウスが提示したセンプロニウス農地法案を提出、従兄弟プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオと対立しナシカの支持者に殺害されてしまう。兄の殺害によりグラックス家の遺産を相続する。そしてのちに分かることだが、ガイウスは兄の遺志も継ぐことになる。
護民官に当選
ガイウスはトリブヌス・ミリトゥムとしてヌミディアに赴任したのが公的生活の始まりである。その後ローマに戻り、紀元前126年にクァエストル職に当選、つつがない数年を過ごす。そして紀元前123年に護民官に当選し、当然の事だが、保守派は再び弟ガイウス兄ティベリウスのような行動をとるのかと警戒した。しかしガイウスは兄の遺志は継いだが、同時の兄が犯した誤りを再び踏まないよう学んでいた。
構想としてガイウスは形骸化してしまったセンプロニウス農地法だけでなく、穀物の価格を統制する法案、市民の軍役年数に制限を加える法案も成立させようとしていた。また司法に関しても元老院の不正・横領を告発でき、また元老院議員たちが仲間内でかばいあうことを防ぐ法案も考えていた。彼の法案では身分の低いエクィテスの者でも法規の草案に携わることができるとした。彼はまたローマ市民権を他のイタリア内の同盟都市にも広げようとしていた。このすべてが元老院を反発させた。
護民官に再選
紀元前122年、ガイウスは再び護民官選挙に出馬する。護民官の再選−護民官の官職は元老院入りの最初のキャリアに過ぎないと考えられていたので、通常では考えられないことであった。そして当選し、ローマの下層市民の圧倒的支持を受け、そして増大する元老院の反発を背景に改革に躍進していった。しかしながら成果は芳しくなく、保守的な執政官ルキウス・オピミウス(en)の前に彼らの法案は潰されてしまう。そして剛を煮やしたガイウス一派は過激な行動に出てしまい、そして元老院はガイウスおよびその支持者に対して「セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」を可決した。奴隷の機転でガイウスは逃げおおせたが、敵対者に捕まりそうになると配下の奴隷に自分を殺すよう命令、ガイウスは殺され、その奴隷も自ら命を絶った。
死後
ガイウスの死後も殺害は絶えなかった。彼の一派3,000人が殺された。プルタルコスによると、ガイウスの首が切り取られ、オピミウムの手の者によって持ち去られ、頭の重さと同等の金と交換してもらったという。