「ウーファ (映画会社)」の版間の差分

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1921年に民営化され、毎年600本もの作品を送り出す、ドイツ映画界を代表する制作会社となり、その作品は国際的にも高い評価を得るようになって行く。ウーファーで活躍した映画監督には『[[ドクトル・マブゼ]]』(1922)や『[[メトロポリス (1927年の映画)|メトロポリス]]』(1926)の[[フリッツ・ラング]]、『吸血鬼ノスフェラトウ』(1921)や『[[最後の人]]』(1925)の[[F・W・ムルナウ]]、『嘆きの天使』(1930)の[[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]]、『南の誘惑』(1937)の[[ダグラス・サーク]]などがいる。
1921年に民営化され、毎年600本もの作品を送り出す、ドイツ映画界を代表する制作会社となり、その作品は国際的にも高い評価を得るようになって行く。ウーファーで活躍した映画監督には『[[ドクトル・マブゼ]]』(1922)や『[[メトロポリス (1927年の映画)|メトロポリス]]』(1926)の[[フリッツ・ラング]]、『吸血鬼ノスフェラトウ』(1921)や『[[最後の人]]』(1925)の[[F・W・ムルナウ]]、『嘆きの天使』(1930)の[[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]]、『南の誘惑』(1937)の[[ダグラス・サーク]]などがいる。


俳優では、[[エミール・ヤニングス]]、[[コンラッド・ファイト]]、[[マレーネ・ディートリッヒ]]、[[ウェルナー・クラウス]]、[[グレタ・ガルボ]]、[[リリアン・ハーヴェー]]、ウィリー・フリッチェ、ハンス・アルバース、ツァラ・レンダ、ヤン・キプーラ、マルタ・エッガートなどが[[サイレント映画|サイレント]]から[[トーキー]]初期にかけて活躍した。
俳優では、[[エミール・ヤニングス]]、[[コンラート・ファイト]]、[[マレーネ・ディートリッヒ]]、[[ウェルナー・クラウス]]、[[グレタ・ガルボ]]、[[リリアン・ハーヴェー]]、ウィリー・フリッチェ、ハンス・アルバース、ツァラ・レンダ、ヤン・キプーラ、マルタ・エッガートなどが[[サイレント映画|サイレント]]から[[トーキー]]初期にかけて活躍した。


実験的な作品や過激な作品も制作する一方、ドイツ映画特有のジャンルである[[山岳映画]]も製作。『モンブランの嵐』(1931)の[[アーノルド・ファンク]]をはじめ、[[ハンネス・シュナイダー]]や[[レニ・リーフェンシュタール]]なども出演した。
実験的な作品や過激な作品も制作する一方、ドイツ映画特有のジャンルである[[山岳映画]]も製作。『モンブランの嵐』(1931)の[[アーノルド・ファンク]]をはじめ、[[ハンネス・シュナイダー]]や[[レニ・リーフェンシュタール]]なども出演した。

2008年10月14日 (火) 15:55時点における版

ウーファー(UFA)は、1917年から1945年の間、ヴァイマル共和政下と第二次世界大戦中にかけてドイツにあった映画会社。正式名称は"Universum Film AG"。

ウーファーは1917年、第一次世界大戦のためのプロパガンダ映画や公共映画を制作する制作会社として政府によりベルリンに設立された。

1921年に民営化され、毎年600本もの作品を送り出す、ドイツ映画界を代表する制作会社となり、その作品は国際的にも高い評価を得るようになって行く。ウーファーで活躍した映画監督には『ドクトル・マブゼ』(1922)や『メトロポリス』(1926)のフリッツ・ラング、『吸血鬼ノスフェラトウ』(1921)や『最後の人』(1925)のF・W・ムルナウ、『嘆きの天使』(1930)のジョセフ・フォン・スタンバーグ、『南の誘惑』(1937)のダグラス・サークなどがいる。

俳優では、エミール・ヤニングスコンラート・ファイトマレーネ・ディートリッヒウェルナー・クラウスグレタ・ガルボリリアン・ハーヴェー、ウィリー・フリッチェ、ハンス・アルバース、ツァラ・レアンダー、ヤン・キプーラ、マルタ・エッガートなどがサイレントからトーキー初期にかけて活躍した。

実験的な作品や過激な作品も制作する一方、ドイツ映画特有のジャンルである山岳映画も製作。『モンブランの嵐』(1931)のアーノルド・ファンクをはじめ、ハンネス・シュナイダーレニ・リーフェンシュタールなども出演した。

1920年代後半には財政難に陥り、1927年に実業家のアルフレート・フーゲンベルクによって買収された。フーゲンベルクは後に右翼のドイツ国家人民党党首となり、1933年にヒトラーが政権を取ると、ヒトラー内閣の経済相・農相となった。このような経緯によって、ウーファーはナチのプロパガンダ映画も製作するようになる。さらに1937年にはナチ党がウーファーの株を72%取得、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、映画の力を重要視しウーファーの人事権や経営権に介入、1942年には完全に国有化になる。この間にフリッツ・ラングエルンスト・ルビッチビリー・ワイルダーやマレーネ・デイートリッヒなどのユダヤ系、反ナチス系映画関係者が海外に亡命する。

一方ではトーキー作品も多く作られ、『西部戦線1918年』(1930)、『M』(1931)、『制服の処女』(1931)などの劇映画、前述の『嘆きの天使』(1930)、『ガソリンボーイ三人組』(1930)、『狂乱のモンテカルロ』(1931)、『会議は躍る』(1931)、『三文オペラ』(1931)『ワルツ合戦』(1933)などのシネオペレッタと呼ばれる音楽映画が相次いで製作され、レベルの高い作品と楽しい主題歌は世界中でヒットした。

ナチス政権下では、『突撃隊員ブラント』、『ヒトラー少年クヴェックス』、『ユダヤ人ジュース』などの醜悪なプロパガンダ映画がつくられる一方、『誓いの休暇』、『ほら男爵の冒険』などの良作も製作された。映画人も、エミール・ヤニングスやヴェルナー・クラウスなどのスターが残ったが、かつての高レベルの映画を作る勢いはなかった。大戦勃発後も映画活動は続けられ、1945年1月、ソ連軍の砲火が迫る中、ゲッベルスの肝いりで最後の大作『コルベルク』が製作されたが、最早国内は映画どころではなかった。5月1日のドイツ降伏の日とともに『コルベルク』の上映は禁止された。

第二次大戦後にはナチス・ドイツとの関連が要因で、活動を停止する。政治にまったく関係のない映画作品であっても、ウーファーの名前を削って再発するという事態にまでなる。東側にあったスタジオはDeutsche Film AGとして存続したがドイツ再統一後の1990年に倒産。西側でもウーファーを復興させようという動きがあったが、失敗に終わった。しかし1991年以来、テレビの制作会社としてベルテルスマングループの傘下に入っている。

外部リンク